こんにちは。
過ごしやすい日々の中の時折の肌寒い風にやられそうになっている某1年です。
今回の巡検は1年生3人が担当させていただきました。
巡検テーマを『江戸の遺構と近代都市東京の形成過程をみる』と設定し、明治維新での近代化・関東大震災を転換点とした東京主部をめぐります。
集合は東京駅丸の内中央口です。
東京駅の歴史は、神戸へ伸びる東海道線の始発駅新橋と青森へ伸びる日本鉄道の始発駅上野とを結ぶ「中央停車場」の設置が明治20年代に計画されたことに端を発します。東京駅は1914年に開業し、丸の内駅舎は辰野金吾と葛西萬司によって設計されました。レンガを多用したレトロな造りながらも、当時先端の鉄筋コンクリートが導入された建物だそうです。
東京駅は当時の帝都の中央駅としての体裁を整えるためにも皇族や賓客との結びつきを強く持たせ、皇族賓客専用の出入り口や休憩所が設けられました。また現在は3つ有る丸の内口で出入りができますが、当時は北口と南口の2箇所が一般利用されており、現在の南口を乗車口、北口を降車口として使い分けがされていました。
1945年の東京空襲で最上部が損壊したために47年までに修築され、2012年に開業当時の姿に復原されました。現在は東京五輪に向け駅前の整備工事が進められています。
東京駅をバックに記念撮影です。
東京駅の西側の丸の内地区は、皇居前や霞が関などにまで広がる大名屋敷地でしたが、幕府瓦解後は残った建物が新政府の官庁、兵舎としてしばらく使用されていました。
軍事が対内から対外へ展開する過渡期(1880年前後)に、軍事施設を手狭な丸の内から広大な敷地を有する赤坂・麻布の中屋敷跡地に移して、もとの丸の内の土地を三菱に払い下げたことや、中央停車場計画がたてられ始めたことで丸の内地区の整備が進んだことなどから丸の内が変わり始め、現在のようなオフィス街へと変化を遂げました。
続いて行幸通りを進み、皇居外苑へと入ります。丸の内のビル街を抜けて現れる石垣や緑と玉砂利の広がる土地は、まさしく「都会のオアシス」といった感じです。巽櫓や桔梗門、坂下門など江戸城の古跡を見ながら二重橋前まで向かいます。
皇居といえばこの風景。「二重橋」の名前の由来については『手前の橋がめがね橋(二重アーチ)だから』とか『手前と奥に二重に橋がかかっているから』などと言われることが多いですが、本当のところは江戸時代に奥にかかっていた木橋の橋桁が濠の深さゆえに二重にされていたことから来ているようです。現在は「元祖・二重橋」は鉄橋にかけ替えられ、橋桁も二重ではなくされてしまったために名前だけが残っている状況です。普段は二重橋は通れませんが、一般参賀や皇居内の桜・紅葉を見る会などで渡ることができます。
ちなみに奥に見える櫓は「伏見櫓」といい、豊臣秀吉築城の伏見城から移築された?とも言われています。
桜田門は1860年に井伊直弼が水戸浪士に暗殺された場所としてあまりにも有名です。門を出た先には国道1号線が伸び、霞が関のビルがそれを囲んでいます。霞が関はその地に奥州街道の関所があったことからその名がついたとも言われています。明治に入り行政機関建設地とされていた日比谷の土地が軟弱であったために予定が霞が関に移り、現在の官庁街の素地が形成されました。「桜田門」「霞が関」はそれぞれ警視庁、外務省の別称とされることがありますが、桜田門前にあることや、当初から移転せずに霞が関にあったことがその由来となっています。
桜田濠をまわって国会前庭にやってきました。ここは江戸時代には彦根藩井伊氏の上屋敷でした。つまり井伊直弼は国会前の邸宅から江戸城桜田門までの間に襲撃されたことになります。明治に入り陸軍参謀本部、陸軍陸地測量部がおかれ、1891年に日本の標高の起点となる「日本水準原点」が設けられました。付近に桜田門から国会に向けて上がる坂や三宅坂があることからわかるように、当地はもともと東に日比谷入江を望んでいた武蔵野台地の縁となっています。台地上に標高の基準を置くことで地盤変動の影響を抑えられるとされましたが、1923年の関東大震災と2011年の東日本大震災の2回だけその基準高がマイナス修正されています。水準原点は水晶の柱で出来ていて、それを収める標庫には政府の現役施設としては珍しく「大日本帝国」の文字が見られます。毎年測量の日に先立って標庫内部が公開されます。年1度の貴重な機会ですのでぜひ出かけてみてください。
国会の衆議院側をまわり、次は日枝神社です。日枝神社の起源は、太田道灌が江戸城築城の際に川越日枝神社を勧請したのに始まり、家康が移封時に江戸城内に、のちに秀忠が「庶民も参拝できるように」と城外麹町隼町に遷座、明暦の大火で現在の位置に移りました。秀忠の遷座の甲斐もあり、「山王さん」として親しまれる神社になりました。現在の日枝神社の位置は江戸城の裏鬼門にあたり、江戸城鎮守の役割を果たしていました。皇居となった現在でも「皇城之鎮」としての役割を全うしています。
日枝神社の下には江戸城の上水ダムの役割を果たしていた人造湖、溜池がありました。江戸時代初期に作られた溜池は、現在の不忍池以上の大きさがあり、浮世絵に描かれるほどに風光明媚な名所でしたが、明治に入り役割を終えた溜池は徐々に埋め立てられ、暗渠に見えていた水ももう見られなくなってしまったようです。右に掲載した浮世絵は葛飾北斎によって描かれた溜池です(『諸国滝廻 東都葵ケ岡の滝』1833年頃)。
地下鉄の新駅設置に際して、千代田区が「山王下駅」を、港区が「溜池駅」を提案し対立していたために折衷案として「溜池山王駅」という合成地名が採用されたのは有名な話です。
その溜池山王駅から南北線で四ツ谷駅に移動しました。四ツ谷駅から南下すると、大きな西洋風の鉄門が見えてきます。迎賓館の入り口です。
迎賓館がある広大な土地には、江戸時代は紀伊徳川家の屋敷が置かれていましたが、明治に入り新政府の手に渡ったあと、火災によって失われた皇居に新宮殿ができるまでの数年は明治天皇の仮御所が置かれました。皇居に御所が完成したあとはその土地に東宮(皇太子)御所が作られる事になり、御雇外国人コンドルの弟子片岡東熊の設計でヴェルサイユ宮殿を彷彿とさせるような御所が完成しました。しかしそのあまりの派手ように、住居としての利便性は必ずしも良くなかったのか当時の皇太子(大正天皇)が使用したのは少なかったと言われています。その後離宮となりましたが使用頻度に変わりは見られなかったということです。
戦後は国立国会図書館や東京オリンピック組織委員会などに使用されるという意外な経歴を経て、国際社会における外国賓客接遇の需要の高まりから、1974年に迎賓施設に改装されました。2009年には明治以降の文化財として初めて国宝に指定されました。迎賓館は先述のとおり西洋の宮殿を思わせるつくりですが、竣工当時の「皇太子のお住まい」という使途に鑑み内部・外部の様々に日本の武士を思わせる意匠が施されていて、正面玄関上には2人の鎧武者の像が西洋建築に溶け込んでいます。
旧紀伊藩屋敷の土地には迎賓館と隣接して赤坂御用地があり、現在の東宮御所や秋篠宮邸などの諸宮邸や、春秋に園遊会が行われる赤坂御苑があります。
2016年から外国賓客の接遇に支障のない範囲で内部が公開されるようになり、年末までに13日しかない公開期間に巡検日が偶然重なったため、運良く前庭に入ることが出来ました。
あれ、さっき同じような背景で写真を撮ったような…?
南北線・東西線を乗り継いで九段下駅にやってきました。早大生には「馬場歩き」などでお馴染みの早稲田通りの起点を見つつ、靖國神社に入ります。
靖國神社は1869年に東京招魂社として創建され、79年に現在の靖國神社に改称されました。靖國神社という名は明治天皇のご命名によるそうで、1853年(ペリー来航)以降の戦争や内乱などで命を落とされた方が祀られています。「招魂社」のために氏子はおらず、大鳥居が東向きである数少ない神社です。創建初期には境内で日本最古の近代競馬が行われていたという少し驚きの歴史があります。境内が非常に細長いためにトラック状に組まれたレースコースではカーブを曲がりきれずに落馬が相次いだとか…。
境内には桜の標本木があり、毎年その桜の開花によって東京管区気象台が東京の桜開花を宣言しています。
九段坂を下り、九段下駅で解散となりました。
今回は将軍のお膝元「江戸」から帝都「東京」への変化と、その現在の様子について歴史的な観点を重視して巡検を行いました。1年生ナビゲーターのデビューということもあり、つたない解説だったかと思いますが、巡検に参加いただいた皆さん、そして記事を最後までご覧頂いた皆さん、本当にありがとうございました。
参考・引用webページ
地理院地図 maps.gsi.go.jp/
葛飾北斎の浮世絵「諸国瀧廻り」でみる日本の名瀑8選 http://find-travel.jp/article/3677
東京駅の歴史は、神戸へ伸びる東海道線の始発駅新橋と青森へ伸びる日本鉄道の始発駅上野とを結ぶ「中央停車場」の設置が明治20年代に計画されたことに端を発します。東京駅は1914年に開業し、丸の内駅舎は辰野金吾と葛西萬司によって設計されました。レンガを多用したレトロな造りながらも、当時先端の鉄筋コンクリートが導入された建物だそうです。
東京駅は当時の帝都の中央駅としての体裁を整えるためにも皇族や賓客との結びつきを強く持たせ、皇族賓客専用の出入り口や休憩所が設けられました。また現在は3つ有る丸の内口で出入りができますが、当時は北口と南口の2箇所が一般利用されており、現在の南口を乗車口、北口を降車口として使い分けがされていました。
1945年の東京空襲で最上部が損壊したために47年までに修築され、2012年に開業当時の姿に復原されました。現在は東京五輪に向け駅前の整備工事が進められています。
東京駅をバックに記念撮影です。
東京駅の西側の丸の内地区は、皇居前や霞が関などにまで広がる大名屋敷地でしたが、幕府瓦解後は残った建物が新政府の官庁、兵舎としてしばらく使用されていました。
軍事が対内から対外へ展開する過渡期(1880年前後)に、軍事施設を手狭な丸の内から広大な敷地を有する赤坂・麻布の中屋敷跡地に移して、もとの丸の内の土地を三菱に払い下げたことや、中央停車場計画がたてられ始めたことで丸の内地区の整備が進んだことなどから丸の内が変わり始め、現在のようなオフィス街へと変化を遂げました。
続いて行幸通りを進み、皇居外苑へと入ります。丸の内のビル街を抜けて現れる石垣や緑と玉砂利の広がる土地は、まさしく「都会のオアシス」といった感じです。巽櫓や桔梗門、坂下門など江戸城の古跡を見ながら二重橋前まで向かいます。
皇居といえばこの風景。「二重橋」の名前の由来については『手前の橋がめがね橋(二重アーチ)だから』とか『手前と奥に二重に橋がかかっているから』などと言われることが多いですが、本当のところは江戸時代に奥にかかっていた木橋の橋桁が濠の深さゆえに二重にされていたことから来ているようです。現在は「元祖・二重橋」は鉄橋にかけ替えられ、橋桁も二重ではなくされてしまったために名前だけが残っている状況です。普段は二重橋は通れませんが、一般参賀や皇居内の桜・紅葉を見る会などで渡ることができます。
ちなみに奥に見える櫓は「伏見櫓」といい、豊臣秀吉築城の伏見城から移築された?とも言われています。
桜田門は1860年に井伊直弼が水戸浪士に暗殺された場所としてあまりにも有名です。門を出た先には国道1号線が伸び、霞が関のビルがそれを囲んでいます。霞が関はその地に奥州街道の関所があったことからその名がついたとも言われています。明治に入り行政機関建設地とされていた日比谷の土地が軟弱であったために予定が霞が関に移り、現在の官庁街の素地が形成されました。「桜田門」「霞が関」はそれぞれ警視庁、外務省の別称とされることがありますが、桜田門前にあることや、当初から移転せずに霞が関にあったことがその由来となっています。
桜田濠をまわって国会前庭にやってきました。ここは江戸時代には彦根藩井伊氏の上屋敷でした。つまり井伊直弼は国会前の邸宅から江戸城桜田門までの間に襲撃されたことになります。明治に入り陸軍参謀本部、陸軍陸地測量部がおかれ、1891年に日本の標高の起点となる「日本水準原点」が設けられました。付近に桜田門から国会に向けて上がる坂や三宅坂があることからわかるように、当地はもともと東に日比谷入江を望んでいた武蔵野台地の縁となっています。台地上に標高の基準を置くことで地盤変動の影響を抑えられるとされましたが、1923年の関東大震災と2011年の東日本大震災の2回だけその基準高がマイナス修正されています。水準原点は水晶の柱で出来ていて、それを収める標庫には政府の現役施設としては珍しく「大日本帝国」の文字が見られます。毎年測量の日に先立って標庫内部が公開されます。年1度の貴重な機会ですのでぜひ出かけてみてください。
国会の衆議院側をまわり、次は日枝神社です。日枝神社の起源は、太田道灌が江戸城築城の際に川越日枝神社を勧請したのに始まり、家康が移封時に江戸城内に、のちに秀忠が「庶民も参拝できるように」と城外麹町隼町に遷座、明暦の大火で現在の位置に移りました。秀忠の遷座の甲斐もあり、「山王さん」として親しまれる神社になりました。現在の日枝神社の位置は江戸城の裏鬼門にあたり、江戸城鎮守の役割を果たしていました。皇居となった現在でも「皇城之鎮」としての役割を全うしています。日枝神社の下には江戸城の上水ダムの役割を果たしていた人造湖、溜池がありました。江戸時代初期に作られた溜池は、現在の不忍池以上の大きさがあり、浮世絵に描かれるほどに風光明媚な名所でしたが、明治に入り役割を終えた溜池は徐々に埋め立てられ、暗渠に見えていた水ももう見られなくなってしまったようです。右に掲載した浮世絵は葛飾北斎によって描かれた溜池です(『諸国滝廻 東都葵ケ岡の滝』1833年頃)。
地下鉄の新駅設置に際して、千代田区が「山王下駅」を、港区が「溜池駅」を提案し対立していたために折衷案として「溜池山王駅」という合成地名が採用されたのは有名な話です。
その溜池山王駅から南北線で四ツ谷駅に移動しました。四ツ谷駅から南下すると、大きな西洋風の鉄門が見えてきます。迎賓館の入り口です。
迎賓館がある広大な土地には、江戸時代は紀伊徳川家の屋敷が置かれていましたが、明治に入り新政府の手に渡ったあと、火災によって失われた皇居に新宮殿ができるまでの数年は明治天皇の仮御所が置かれました。皇居に御所が完成したあとはその土地に東宮(皇太子)御所が作られる事になり、御雇外国人コンドルの弟子片岡東熊の設計でヴェルサイユ宮殿を彷彿とさせるような御所が完成しました。しかしそのあまりの派手ように、住居としての利便性は必ずしも良くなかったのか当時の皇太子(大正天皇)が使用したのは少なかったと言われています。その後離宮となりましたが使用頻度に変わりは見られなかったということです。
戦後は国立国会図書館や東京オリンピック組織委員会などに使用されるという意外な経歴を経て、国際社会における外国賓客接遇の需要の高まりから、1974年に迎賓施設に改装されました。2009年には明治以降の文化財として初めて国宝に指定されました。迎賓館は先述のとおり西洋の宮殿を思わせるつくりですが、竣工当時の「皇太子のお住まい」という使途に鑑み内部・外部の様々に日本の武士を思わせる意匠が施されていて、正面玄関上には2人の鎧武者の像が西洋建築に溶け込んでいます。
旧紀伊藩屋敷の土地には迎賓館と隣接して赤坂御用地があり、現在の東宮御所や秋篠宮邸などの諸宮邸や、春秋に園遊会が行われる赤坂御苑があります。
2016年から外国賓客の接遇に支障のない範囲で内部が公開されるようになり、年末までに13日しかない公開期間に巡検日が偶然重なったため、運良く前庭に入ることが出来ました。
あれ、さっき同じような背景で写真を撮ったような…?
南北線・東西線を乗り継いで九段下駅にやってきました。早大生には「馬場歩き」などでお馴染みの早稲田通りの起点を見つつ、靖國神社に入ります。
靖國神社は1869年に東京招魂社として創建され、79年に現在の靖國神社に改称されました。靖國神社という名は明治天皇のご命名によるそうで、1853年(ペリー来航)以降の戦争や内乱などで命を落とされた方が祀られています。「招魂社」のために氏子はおらず、大鳥居が東向きである数少ない神社です。創建初期には境内で日本最古の近代競馬が行われていたという少し驚きの歴史があります。境内が非常に細長いためにトラック状に組まれたレースコースではカーブを曲がりきれずに落馬が相次いだとか…。
境内には桜の標本木があり、毎年その桜の開花によって東京管区気象台が東京の桜開花を宣言しています。
九段坂を下り、九段下駅で解散となりました。
今回は将軍のお膝元「江戸」から帝都「東京」への変化と、その現在の様子について歴史的な観点を重視して巡検を行いました。1年生ナビゲーターのデビューということもあり、つたない解説だったかと思いますが、巡検に参加いただいた皆さん、そして記事を最後までご覧頂いた皆さん、本当にありがとうございました。
(文責:さ)
参考・引用webページ
地理院地図 maps.gsi.go.jp/
葛飾北斎の浮世絵「諸国瀧廻り」でみる日本の名瀑8選 http://find-travel.jp/article/3677












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