2017年7月17日月曜日

【新歓企画その3】神楽坂巡検


新歓期どころかもうテスト前ですが、新歓巡検の報告をさせていただきます……。


春の陽気が穏やかな4月23日の日曜日、早稲田から地下鉄東西線で一駅の神楽坂から、新歓巡検第3弾が行われました。

【ルート】
午前の部
:神楽坂駅矢来口→牛込天神町交差点→赤城神社→白銀公園
午後の部
:白銀公園→善國寺前の路地→軽子坂→闇坂→本多横丁→かくれんぼ横丁→泉鏡花・北原白秋旧居跡→熱海湯階段→飯田橋駅早稲田通り跨線橋上


集合は矢来口を出た向かい側の“la kagu”前。
新潮社の倉庫だった建物をリノベーションし、現在はカフェなどが入居しています。
 
参加者多数の盛況につき、道の狭い区間では二手に分かれて巡検しました。





まずやって来たのは、牛込天神町交差点。
交差点から北側を望むと、緩く傾斜しているのがお分かりいただけるでしょう。
この地蔵坂を下ると、神田川沿いの有楽町線江戸川橋駅にたどり着きます。










神楽坂が台地の上に位置していることを感じた後、さらにそのことを印象づけてもらうために、交差点近くの路地に入って、傾斜角40度はありそうな急階段を上ってもらいました。
(今年のものがなかったので、昨年の写真で失礼します)



いったん来た道を引き返して、今度は神楽坂駅の東側・神楽坂口へ。
早稲田通りから北へ入ると、そこにはきれいな神社が。
赤城神社といって、上野国(群馬)赤城山麓の豪族・大胡氏が牛込後に移住した際に、本国鎮守の赤城神社から分霊されたことに端を発します。
江戸期には、日岐神社・神田明神とともに「江戸の三社」とも称されました。
隈健吾氏設計のきれいな社殿は、老朽化に伴って2010年に建て替えられたものです。
敷地内には70年の定期借地で賃貸マンションが建っており、ここからの賃貸収入を神社の建替や運営に充てるという方法で神社再生が行われました。70年後にはマンションが解体され、神社の森が再生されることになっています。
境内に建つ蛍雪天神のお社の脇には、勉学に関する絵馬と一緒に、映画や歌のヒットを祈願する、芸能関係の絵馬も多くかけられていました。


赤城神社を訪れた後は、
敷地の裏にある崖を見に行きました。

見るからに危なっかしい名前の看板ですが、崖の下を覗けばそれもそのはず。
ここは、23区内に7か所しかない急傾斜地崩壊危険区域なのです。
東京都区部にはさまざまな川が流れており、削られやすいローム層などを侵食してできた谷がそこかしこにあります。



台地のヘリには水が湧く――の実例でしょうか。
ちゃんと水が出る井戸もあります。

















時間もちょうどいい頃になってきたので、少し東にある白銀公園に移動して、午前の部はいったん終了。
数人ずつのグループに分かれて、休日の神楽坂ランチを楽しみました。


お腹いっぱいになったところで、再び白銀公園から、午後の部スタート。
あえて急階段のある道を通って、早稲田通りに出ます。
見えてきたのは「神楽坂上」交差点。これから周るところが、神楽坂の“神楽坂”周辺です。


「神楽坂」の名は、付近の神社の神楽の音がここまで聞こえてきた・神輿がここを通った際に神楽が行われたなどさまざま。
その神楽坂を、善國寺近くまで歩きます。


ここからは狭い路地に分け入るため、再び二手に分かれます。
片方のグループは、善國寺の向いにある、肩幅ほどの路地へ。路地というより、通っていいのかも迷ってしまうビルの隙間にしか見えません。
(今年のものがなかったので、昨年の写真で失礼します)




少し歩くと道幅も広くなってきました。
この先にある老舗旅館「和可菜」は、
有名な文豪・映画監督らがカンヅメに利用した
ホン書き旅館。
確かに籠るにはうってつけの立地です。












さらに奥に進むと、広い道に出ました。
神楽坂に並行して走る、軽子坂です。
神楽坂に比べて緩い傾斜を持つ軽子坂は、神楽坂の賑わいを裏から支える物流路として利用されてきました。
宅配便会社の地域拠点があるのも、その名残でしょうか。


軽子坂を下っていくと、
電柱に「揚場(あげば)町」という住所が記されていました。
神田川をさかのぼって外堀に入ったこの辺りで、神楽坂の繁華街向けの物資が積み下ろしされていた様子が地名から読み取れます。





軽子坂を下ると、次は外堀通り沿いの闇(くらやみ)坂へ。
台地の縁にあたるこちらの坂も、だいぶ急傾斜です。
写真がないのが残念ですが、坂を上った先の神楽坂若宮八幡神社、境内に定借でマンションを建てた赤城神社と同じ香りがします……。
そしてもうひとつ。この先にあるT字路が、交差する部分を中心に周りよりも低くなっています。
(この種明かしは後ほど……)


こうして再び善國寺に戻ってきた一行。続いて、銀行の向かいにある本多横丁へ入ります。今度はちゃんと道も広い。


神楽坂は江戸期、主に武家地や寺社地として利用されていました。
しかし明治に入って世の中が移り変わり、かつての武家地に町人が住み始めます。またこの流れに、交通の便が良かったことも相まって、繁華街として栄えていきました。
関東大震災後は、繁華街の賑わいが銀座・渋谷・新宿などに移り、また戦時中の空襲によってまちが焼失するなど、神楽坂は一時期下火の時期を迎えましたが、戦後の闇市規制も相まって、神楽坂は花街として復興してきました。

本多横丁から横道に入ったところにあるかくれんぼ横丁では、料亭などの立地にその歴史を伺い知ることができます。
またこの「かくれんぼ横丁」、本多横丁とは“互”の字を鏡写しにしたような位置関係にあり、反対側へ抜けるには2通りの道があります。



かくれんぼ横丁から早稲田通りに戻ると、
いったん坂が緩やかになる辺りまで下って、脇道に逸れました。

脇道から商業ビルの裏に回りこむと、道は緩やかな左カーブをなぞるように、徐々に高さを増していきます。そして足元からは何やら水の流れる音が……?
勘のいい方はここでお気づきでしょう。

この道の下には暗渠が通っており、これは、若宮八幡神社の先で少しだけ触れた、あの窪みに繋がっているのです。
(もっとも、この流れがさかのぼれるのは先ほどのT字路まで。
その先は宅地化されてしまい、痕跡を辿ることは難しくなっています。
ちなみに、この道沿いにはかつて、泉鏡花・北原白秋が住んでいた家がありました)



また、この道の脇に建つ銭湯「熱海湯」には、
河道跡であったこと示すヒントともいえる、
コインランドリーが併設されています。

熱海湯はかつて芸者らが入浴して身支度を整え、銭湯脇の“熱海湯階段”を通って、早稲田通り北側の花街に向かったという話が残っています。
このため熱海湯階段には、“芸者小道”との別名もついています。




風情のある熱海湯階段を上ったちりけん一同は、再び早稲田通りに出て、本日の解散場所・飯田橋駅へ。
早稲田にいる学生にとって普段馴染みのない、馬場の反対側をめぐる巡検はここで終わりです。



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