こんばんは。今回は幹事長(おきしげん(仮))に代わり、いのうえが担当させていただきます。
えーと、本日は早稲田祭ですね。
地理研も来年度は参加できればと考えております。
今回のテーマの国分寺巡検の前の9月21-22日に伊豆大島合宿というものがありました。
合宿の詳細は後々upする予定ですが、その後に、お世話になった方々や宿、土地が台風による土石流被害に巻き込まれてしまったことは残念でなりません。
本当に微力ながらも復興のお手伝いができるように方法を模索しております。
さて、本題の10月27日(日)に行われた国分寺巡検について書かせていただきたいと思います。
…と地理研でやたらに人気がある国分寺崖線です。
そして、崖線といえば湧水ですね♪
もちろん、国分寺にあるのは崖線と湧水だけではないですよ。
ということで国分寺巡検を振り返っていきたいと思います。
国分寺崖線を手前で部分的にスパッと切った貴重な切断面です。
即ち、武蔵野台地の武蔵野面の地層を見ることができるということです。
昭和50年に国分寺市が作成した「震災対策基礎調査報告書(地形・地質地盤編)」によると上から立川ローム層、武蔵野ローム層、武蔵野礫層、連光寺互層があるとされていますが、実際に見ることができたのは二つのローム層とその上に位置する腐植土層だけでした。
よく、崖線が断層だと誤解されているようですが、あくまで古多摩川によって侵食されたものです。
※私有地の駐車場内にあります。管理人様のご厚意で見せて頂くことができました。
かの有名な三菱財閥の岩崎家の別邸でした。そのため隠れ三菱マークを探すのも粋かもしれません。
国分寺崖線の斜面を活かした庭園として有名で、崖の上は芝、崖の下は竹林が広がっていたりします。
そんなことよりも竹林のある崖の下には湧水があります!!
高い面の地下水脈が崖によっていきなり低い面になると湧水となってあらわれるということですね。
また、殿ヶ谷戸の谷戸とは丘陵や崖が侵食された地形…
ということは、谷地型水田がつくられたのかもしれませんね。
ちなみに恋ヶ窪(旧恋ヶ窪村)ももともとの地形はこのような谷戸であったということが明治時代以前の地図を見るとわかります。現在の地図でもわかることにはわかりますが中央線の開通によって地形が人工的に変えられてしまったので見辛いです。
お鷹の道沿いには伝説があることで有名な真姿の池があり、そのそばにも崖線下の湧水が存在します。
また、この周辺は崖線の下の地域であるため湧水が豊富で国分寺市域で恋ヶ窪村とともに最も古くから集落(国分寺村)が存在したとも考えられています。そのためか現在の地名では東元町、西元町となっています。
また、このあたりも例外ではないが、国分寺市を含む多摩ではけやきやこなら、くぬぎなどの落葉広葉樹が多いです。これは、江戸時代の新田開発が盛んだったころに主流であった短冊形地割の平地林が多くあったからだと思われます。平地林の落葉広葉樹林は薪や肥料として使われたようです。
現在でも地図を見るとその他の樹木畑が多いのはそのような理由があるからです。
また、この辺の大地主として本多家という一族がいらっしゃいますが、江戸時代に分家なさって、本多新田を開墾したため崖の上側に本多という地名が今でも残っています。
ちなみに開発が江戸時代まで遅れたのは火山灰土壌かつ、扇状地でもある武蔵野台地は水はけがよくて、農業が難しかったために玉川上水とその分水の完成を待たねばならなかったためです。
東西1500m、南北1000mの広大な寺域をもっていましたが、現在は礎石と割れた瓦を見ることができるくらいです。
全国の国分寺も律令制の崩壊とともに衰退し、平安時代ころには多くが消滅していったようです。
この武蔵国分寺に関しては1333年の分倍河原の戦いで完全に消失したとされています。後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとしたあれです。後醍醐天皇方で戦っていた新田義貞が埋めあわせで建立したのが現存する武蔵国分寺で二つの武蔵国分寺の間には直接的な関係はないようです。
ちなみに聖武天皇が建立した武蔵国分寺がこの場所に立地するのも崖下であり、湧水が豊富であったからと考えるのが妥当であると思います。
⑤東山道武蔵路
東山道とは律令制が施行された奈良時代に畿内と多賀城を結んだ官道の一つで、主に奈良や伊勢、尾張、信濃、上野、下野を通り多賀城へと至るルートであったと考えられています。また、その東山道が上野から枝分かれし、武蔵国府(現在の府中市)へと向かった支道がこの東山道武蔵路であると言われています。武蔵国分寺の少し西側を南北にまっすぐ貫いています。また、12mほどの道幅や側溝を持っているのも特徴です。
当時、唐や隋の影響を強く受けていたことや時代的に不安定だったために軍兵の潤滑な移動をさせることができるようにと広くまっすぐな道がつくられました。地形に沿った狭い道ができるのがむしろ、後の時代なのです。この流れは古代ローマとも似ていますね。
ちなみに現在は遺跡保存のため武蔵路の上に歩道がつくられています。すなわち幅12mの歩道が存在し、車道は歩道よりも圧倒的にせまいというシュールな光景が広がっています。日本一広い歩道とも言われています。
はい、長々と駄文を書きすぎました…
読んでくださってありがとうございました。
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地理研は、 年 中 新 歓 期 で す。
活動に興味のある方は、geo.wasedaあっとまーくgmail.com
までご一報ください。
地理に興味ある、地理が好きであればどなたでも。大学・学部・学年不問です。
①お名前
②大学・学部・学年
をわすれずに(^0^)
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えーと、本日は早稲田祭ですね。
地理研も来年度は参加できればと考えております。
今回のテーマの国分寺巡検の前の9月21-22日に伊豆大島合宿というものがありました。
合宿の詳細は後々upする予定ですが、その後に、お世話になった方々や宿、土地が台風による土石流被害に巻き込まれてしまったことは残念でなりません。
本当に微力ながらも復興のお手伝いができるように方法を模索しております。
さて、本題の10月27日(日)に行われた国分寺巡検について書かせていただきたいと思います。
国分寺といえば国分寺崖線!!
…と地理研でやたらに人気がある国分寺崖線です。
そして、崖線といえば湧水ですね♪
もちろん、国分寺にあるのは崖線と湧水だけではないですよ。
ということで国分寺巡検を振り返っていきたいと思います。
ルート
国分寺駅(集合)→南町二丁目交差点脇の地層切断面→都立殿ヶ谷戸庭園→お鷹の道・真姿の池湧水群→武蔵国分寺跡→東山道武蔵路跡→西国分寺駅(解散)
①南町二丁目交差点脇の地層切断面
即ち、武蔵野台地の武蔵野面の地層を見ることができるということです。
昭和50年に国分寺市が作成した「震災対策基礎調査報告書(地形・地質地盤編)」によると上から立川ローム層、武蔵野ローム層、武蔵野礫層、連光寺互層があるとされていますが、実際に見ることができたのは二つのローム層とその上に位置する腐植土層だけでした。
よく、崖線が断層だと誤解されているようですが、あくまで古多摩川によって侵食されたものです。
※私有地の駐車場内にあります。管理人様のご厚意で見せて頂くことができました。
②都立殿ヶ谷戸庭園
かの有名な三菱財閥の岩崎家の別邸でした。そのため隠れ三菱マークを探すのも粋かもしれません。国分寺崖線の斜面を活かした庭園として有名で、崖の上は芝、崖の下は竹林が広がっていたりします。
そんなことよりも竹林のある崖の下には湧水があります!!
高い面の地下水脈が崖によっていきなり低い面になると湧水となってあらわれるということですね。
また、殿ヶ谷戸の谷戸とは丘陵や崖が侵食された地形…
ということは、谷地型水田がつくられたのかもしれませんね。
ちなみに恋ヶ窪(旧恋ヶ窪村)ももともとの地形はこのような谷戸であったということが明治時代以前の地図を見るとわかります。現在の地図でもわかることにはわかりますが中央線の開通によって地形が人工的に変えられてしまったので見辛いです。
③お鷹の道・真姿の池湧水群
崖線各所からの湧水を集めた元町用水に沿った小さな道がお鷹の道です。
お鷹の道沿いには伝説があることで有名な真姿の池があり、そのそばにも崖線下の湧水が存在します。また、この周辺は崖線の下の地域であるため湧水が豊富で国分寺市域で恋ヶ窪村とともに最も古くから集落(国分寺村)が存在したとも考えられています。そのためか現在の地名では東元町、西元町となっています。
また、このあたりも例外ではないが、国分寺市を含む多摩ではけやきやこなら、くぬぎなどの落葉広葉樹が多いです。これは、江戸時代の新田開発が盛んだったころに主流であった短冊形地割の平地林が多くあったからだと思われます。平地林の落葉広葉樹林は薪や肥料として使われたようです。
現在でも地図を見るとその他の樹木畑が多いのはそのような理由があるからです。
また、この辺の大地主として本多家という一族がいらっしゃいますが、江戸時代に分家なさって、本多新田を開墾したため崖の上側に本多という地名が今でも残っています。
ちなみに開発が江戸時代まで遅れたのは火山灰土壌かつ、扇状地でもある武蔵野台地は水はけがよくて、農業が難しかったために玉川上水とその分水の完成を待たねばならなかったためです。
④武蔵国分寺跡
聖武天皇によって建立された武蔵国の国分寺の跡です。もちろん、国分尼寺もありました。東西1500m、南北1000mの広大な寺域をもっていましたが、現在は礎石と割れた瓦を見ることができるくらいです。
全国の国分寺も律令制の崩壊とともに衰退し、平安時代ころには多くが消滅していったようです。
この武蔵国分寺に関しては1333年の分倍河原の戦いで完全に消失したとされています。後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとしたあれです。後醍醐天皇方で戦っていた新田義貞が埋めあわせで建立したのが現存する武蔵国分寺で二つの武蔵国分寺の間には直接的な関係はないようです。
ちなみに聖武天皇が建立した武蔵国分寺がこの場所に立地するのも崖下であり、湧水が豊富であったからと考えるのが妥当であると思います。
⑤東山道武蔵路
東山道とは律令制が施行された奈良時代に畿内と多賀城を結んだ官道の一つで、主に奈良や伊勢、尾張、信濃、上野、下野を通り多賀城へと至るルートであったと考えられています。また、その東山道が上野から枝分かれし、武蔵国府(現在の府中市)へと向かった支道がこの東山道武蔵路であると言われています。武蔵国分寺の少し西側を南北にまっすぐ貫いています。また、12mほどの道幅や側溝を持っているのも特徴です。当時、唐や隋の影響を強く受けていたことや時代的に不安定だったために軍兵の潤滑な移動をさせることができるようにと広くまっすぐな道がつくられました。地形に沿った狭い道ができるのがむしろ、後の時代なのです。この流れは古代ローマとも似ていますね。
ちなみに現在は遺跡保存のため武蔵路の上に歩道がつくられています。すなわち幅12mの歩道が存在し、車道は歩道よりも圧倒的にせまいというシュールな光景が広がっています。日本一広い歩道とも言われています。
はい、長々と駄文を書きすぎました…
読んでくださってありがとうございました。
次回は11月10日(日)に埼玉巡検です。
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地理研は、 年 中 新 歓 期 で す。
活動に興味のある方は、geo.wasedaあっとまーくgmail.com
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地理に興味ある、地理が好きであればどなたでも。大学・学部・学年不問です。
①お名前
②大学・学部・学年
をわすれずに(^0^)
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