2014年11月30日日曜日

田園調布・自由が丘巡検 午前の部 (2014/11/30AM)


個人企画として11/30(日)に11月巡検を開催しました。
参加者は見学が2人と、メンバーが10人でした!久しぶりの少人数の巡検です
場所は多摩川駅から都立大学駅にかけての東横線沿線の地域です。
ブログを参考に後で歩きたいというメンバーがいましたのでかなり解説が多いです。長文が続くので閲覧注意です。
田園調布・自由が丘巡検ルート


まず集合場所は渋谷駅。そこから東横線に乗ります。
集合場所は多摩川駅でもよかったのですがなぜそこかというと、
  ①東横線の地形に対応した線路の構造を感じてほしい
  ②駅名に注目
  ③渋谷からの時間距離に注目
というのがあったからです。


「①東横線の地形に対応した線路の構造を感じてほしい」というのも、東横線は武蔵野台地を横切っているため、武蔵野台地の台地面に対応した構造になっています。
  • 渋谷 渋谷川沖積低地
  • 代官山 半地下 S面淀橋台
  • 中目黒 高架 目黒川沖積低地
  • 祐天寺~学芸大学 高架 M2面目黒台
  • 学芸大学~都立大学 切り通し S面荏原台
  • 都立大学 高架 呑川沖積低地
  • 都立大学~自由が丘 地面上 S面荏原台
  • 自由が丘 高架 九品仏川/M2面目黒台
  • 田園調布 地下 S面田園調布台
  • 多摩川 高架 多摩川沖積低地
という感じです。非常に明瞭に地形の違いがわかります。S面では地下か切通か地面上を走り、M面では高架が続き、沖積面・川は高架で渡るという様子がよくわかります。

多摩川駅から浅間神社に登ります。ここは、国分寺崖線(自然地形)の上に古墳(古墳時代)があり
その上に浅間神社(鎌倉時代)が乗っかっているという構造になっています。さらに脇を通る東急線がそれを切通てぶったぎってるという…
多摩川です。右側の緑が連なっているのが国分寺崖線。
南側は眼下に多摩川が流れ、冬には富士山が見えるというように、遠くまで見渡せる展望台があります。

さてさて、ここでは浅間神社ではなく、多摩川をはさんで反対側(神奈川県川崎市)の武蔵小杉が注目ポイントです。


武蔵小杉の方を眺めると高層のタワーマンションが幾つも建っています。

向うに武蔵小杉のビル群が見えます
もともとは武蔵小杉の地域も1920年代までは東京の郊外農村で田畑が広がっていました。

しかし、1926、1927に東京横浜電鉄(東横線)、南武鉄道(南武線)が開通して都市化が進みはじめます。
1928-1935には東京横浜電鉄が土地分譲を行い、学校誘致も行い学園都市/近郊都市へと変化しはじめます。

その後、太平洋戦争が始まる前後には、

  • 川崎地区の工場および人口密度の急激な上昇→住宅難→近郊農村部の都市化進行
  • 川崎の沿岸部の工業地帯から南武線をつたって軍需関連の工場が進出し、新規の労働力需要を生む工場立地そのものが内陸部へ移動してきた
ことにより、人口が爆発的に増加し、近代的な大工場が立地しました。


つまり、東横線に沿って、宅地化が進行してきて、南武線に沿って工業化が進行してきて、武蔵小杉はその二つの結節点として宅地化・工業化が進んだことがわかります。

そのような地域が近年になり、
①シリコンリバー(「多摩川流域の俗称。多摩川に沿うJR南部線沿線に、先端技術の研究開発施設や工場が集積していることから命名。」)…大企業の研究所の立地が見られる
②武蔵小杉の再開発 
東急・JRどちらでも横浜・渋谷へ20分弱という超好立地により、企業の厚生施設(都市銀行の運動場)・近代的工場(大規模な工場)が放出され、バブル期から準備されていた市街地再開発事業により、急速な再開発が進み、20階立て以上が10棟以上/地域全体で5000戸が作られるという、今のタワーマンションが立ち並ぶ地域になりました。
特にこの地域で重要なのは、既存の住民の少ないウォーターフロント開発に対して、昔からの商店街や既存の低層住宅地と、これら再開発地域が隣接していて、住宅地の中で大規模再開発が行われていることです。
それでは、多摩川駅から田園調布に入っていきます。
田園調布は東京随一の高級住宅街です。特に大正以降に発展した東京の新市街地域では成城とならぶ高級住宅街になっています。
日本史でおなじみの渋沢栄一が江戸幕府の役人としてパリ万博の際に欧米の都市を見てまわっても来ました。そのときに、イギリスのハワードのニュータウン構想やアメリカのニュータウンの街並みを視察し、そのような環境の良い郊外都市を作ろうとしたのが、この田園調布を含む田園都市(洗足、大岡山、田園調布)です。
当時、日清/日露戦争による経済発展と人口増加により都心の住環境は悪化し手狭になり、関東大震災により新たな居住先を求める都心からのpush要因がありました。山の手地域は、地盤が強固な台地上で、震災で危険の少なく、しかも、それまでは水が手に入りにくくて、放置されていた、土地に余裕のある地域。
そんなときに作られたのが田園都市(今回は田園調布)でした。
田園都市は
・田園都市会社で交通機関を設けて市電と接続させる(←当初鉄道業は副業!本業は宅地開発)
・電気ガスは会社が直営して東京市内と同額、上水道は玉川水道、下水道も設ける(←当時の分譲地としては珍しい)
・郵便局、電話、駐在所、医師の設置を申請。道路は3.6m以上で街路樹を設ける(道路率は18%(当時の分譲地の平均は5%))
・建物は
  1. 他人の迷惑となるような建物は建造しないこと
  2. 障壁を設ける場合は洒落典雅なものにすること
  3. 建物は三階以下
  4. 建物敷地は宅地の5割以内
  5. 建築線と道路の間隔は、道路幅員の2分の1以下
  6. 建築費は一坪当たり120円以上
・会社が教育施設の用地をあらかじめ用意する
・住居以外の建物は禁じ、店舗は駅を中心とした店舗地域に限る⇒駅東側のみに商業地区が広がる。マンションができてしまう・・・
・居住者相互の交際機関・協議機関として倶楽部を設置。会社が用地を提供
・公園などを設置する
というコンセプトで作られ非常に良好な住環境が整備されました。
田園都市計画に伴い目黒線(当時目蒲線)が開通。後に東横線も開通。それまでは都心まで一日かけて往復していた時間距離が短縮されました。みんなで乗りましたが、「③渋谷からの時間距離に注目」と言った通り、渋谷から多摩川まで各停でもめっちゃ近いです。
しかし、まずは洗足・大岡山から始めたものの、洗足は地価が高騰して、田園都市開発を中断。大岡山は東工大に土地が売れたから分譲はそれでおしまい。そして、最終的に理想のニュータウンをと作られたのが田園調布でした。田園都市の当時の理想の最終形態が田園調布です。
これは田園調布が位置する玉川村の4%の土地におよび、地域に大きなインパクトを与えました。
また地価(買い取り価格)は高騰したものの5.33円で買い取り、田園都市として分譲するときの売却価格は24-60円という高額になっていたことも地域に大きな影響を与えました。
地形的にいうと、田園調布のある地域だけ田園調布台という下末吉面の武蔵野台地です。当時、地学的知識は皆無でした。しかし、眺めがいいところに良好な宅地を開発するという目的に合致するのが、周りより一段高いS面の田園調布台だったのではないかなと思われます。
ただ、いくら高級住宅街だとはいっても1980年代には住宅地の宿命である、細分化やマンション開発が行われました。
田園調布の住民の人たちはこの景観の変化に対して、80 年代の初めに「田園調布憲章」&「環境保全についての申し合わせ」を制定し、法令のよりも厳しい規制をし、後に地区計画を制定し、高級住宅街というブランドと景観を守り、現在は細分化率が鈍化しています。
田園調布は歴史的背景を有さず、計画的に作られた町であり、田園都市建設という理想とする町の姿は明瞭であったことから、理念がこの土地に投影されており、住民の人たちの集団としての活動基盤も整えられており、早くから住民による自主的な行動がみられました。
地価が高いため、マンションは低層でも収益があがり、高層マンションが建設されなかったという要因もあります。
田園都市の当初の計画に沿って作られたのが宝来公園になります。現在でももともと商業地区として用意された駅の東側にのみ商業が見られます。
ここ田園調布で有名人の豪邸などを見つつ、自由ヶ丘まで歩き、午前の部は13:00に自由が丘にて終了です。



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