今回、町田巡検の担当をしました、早稲田大学1年の伊藤です。
よろしくお願いします。以下、巡検時に参加者に配布したレジュメを再構成したものを公開していきます。
1. 巡検のテーマ
・町田市郊外から町田市中心街にかけての各地域の機能的・環境的な差異や変化を観察する。
・巡検からベッドタウンとしての特徴や町田の特異性を学び、今後の課題について考える。
2. 町田市の概要
・町田市は東京都の南端にあり、半島のように神奈川県に突き出ている。多摩丘陵の西部から中央部を占める位置に立地。市のほぼ全域が多摩丘陵に含まれ、多摩丘陵の西部から中央部を占める位置に立地し、市域の平面積は丘陵の西南線に沿う狭長な形態になっている。標高は最西端に位置する大地沢嶺(草戸山)が海抜364mと最も高く、最低は三輪団地東側が海抜27mであり、平均100m前後の高さで、北高南低となっている。 地質は主として表面5~15mの深さを関東ローム層におおわれている。
町田市の各種データ(2010年)「平成22年国勢調査人口等基本集計」(総務省統計局)より
人口 426987人 (東京都市部では八王子市に次いで第二位)
人口増減率 5.29% (5年前比、東京都市部では武蔵村山市に次いで第二位)
面積 71.6km2 (東京都市部では八王子、青梅、あきる野に次いで第三位)
人口密度 5961人/km2 (東京都市部平均は9299.5人/km2)
15歳未満人口割合 14.21% (東京都平均11.39%)
15歳~64歳人口割合 66.08% (東京都平均68.24%)
65歳以上人口割合 19.71% (東京都平均:20.37%)
昼夜間人口比率 91.0%
・町田市は、南多摩郡町田町、鶴川村、忠生村、堺村が合併し、1958年2月1日に施行された(東京都で9番目に生まれた都市)。
人口 426987人 (東京都市部では八王子市に次いで第二位)
人口増減率 5.29% (5年前比、東京都市部では武蔵村山市に次いで第二位)
面積 71.6km2 (東京都市部では八王子、青梅、あきる野に次いで第三位)
人口密度 5961人/km2 (東京都市部平均は9299.5人/km2)
15歳未満人口割合 14.21% (東京都平均11.39%)
15歳~64歳人口割合 66.08% (東京都平均68.24%)
65歳以上人口割合 19.71% (東京都平均:20.37%)
・近隣からも多くの人たちが集まり、商圏人口200万人の一大商業都市へと発展した。
・「町田市は(中略)、なお発展を続けている武相地区の中核都市である。急速に都市開発が進んだが、しかしなお、多摩丘陵の緑の豊富さは、周辺地域に抜きんでたものをもっている。」(堀江泰紹『はじめてのわかりやすい町田の歴史』1990、国書刊行会、p.2寺田和雄「序 独特な町田の、ユニークな歴史」より引用)とあり、また、(図1)地目別土地面積を見ると、宅地約4割に対して山林が約1割、田畑も約1割と、町田市は、都市開発が進み、都市化された市街地が広がる一方、里山や雑木林が広い地域で残存しているといえる。・人口密度が東京都市部の平均より低いのは、特に北部に山林が広範囲に分布しているためだと考えられる。
・比較的、若年人口の割合が高く、高齢人口の割合が低い。また、中夜間人口比率が100%を下回っていて、典型的なベッドタウンである。これらのことから、郊外での生活をしようと、ファミリー層が流入していることが考えられる。
・人口の推移を見ると、高度経済成長期に急激に増加し、現在も人口増減率が5%を超えており、比較的割合の高い人口増加が続いている。(図2)
・市内に鉄道は、JR横浜線、小田急小田原線、東急田園都市線、京王相模原線が通っている。小田急線町田駅から新宿駅まで約30分(平日昼間、快速急行利用、『マイライン交通時刻表2014年4月号』より計算)で行けるなど、都心方面への利便性も高い。ただし、市内の移動は、市域を貫くような鉄道路線が存在しないので、バスに頼らざるを得ない。
3. 巡検の概要
●集合:小田急線鶴川駅
①鶴川駅
新宿駅から小田原駅間で昭和2年(1927年)に営業を開始した同年、鶴川駅も開業。当初は現在の町田市小川方面へ線路を通す計画だったが、地元民たちが小田原鉄道急行へ土地を提供する働きかけを行い、鶴川駅や新原町田駅(現町田駅)が誕生。線路が柿生から鶴川、町田へと曲がっているのがその名残である。
新宿駅から小田原駅間で昭和2年(1927年)に営業を開始した同年、鶴川駅も開業。当初は現在の町田市小川方面へ線路を通す計画だったが、地元民たちが小田原鉄道急行へ土地を提供する働きかけを行い、鶴川駅や新原町田駅(現町田駅)が誕生。線路が柿生から鶴川、町田へと曲がっているのがその名残である。
●バス移動
②小野路宿里山交流館
多摩丘陵の原風景を残す町田市北部の小野路地域には、江戸時代に宿場としてにぎわった小野路宿があり、そこにあった一軒の旅籠、旧「角屋」を改修し、観光交流の拠点として再整備した施設。
| 小野路宿里山交流館 |
③図師小野路歴史環境保全地域
保全地域とは、「『東京における自然の保護と回復に関する条例』により、良好な自然地や歴史的遺産と一体となった樹林地などを区域指定し、その保護と回復を図ることで、次世代に引き継いでいくための制度」(町田市観光ガイド「町田ウォーキングルール別紙1」http://machida-guide.or.jp/common/img/img_walking_rule/001.pdf(2015年1月14日閲覧)より引用)であり、観察路以外の立ち入り禁止、活動の制限、建築、の制限など厳しい規制がかけられている。この地域内に民家はほとんどなく、自動販売機はもちろん、電柱など、人工物と思われるものがほとんどない。
| 万松寺谷戸 |
| 雑木林を進む |
| 五反田谷戸 |
④鶴見川
町田市の源流から横浜市鶴見区に注ぐ全長42.5kmの一級河川。この付近の鶴見川流域には、住宅地が広がる。過去の地図と比較してもわかるように、氾濫を防止するために、河川改修されている。曲がっている旧河道を、直線に直した新河道の近くに流路として残しているポイントが見られる。特定都市河川及び特定都市河川流域に指定されている。
※特定都市河川浸水被害対策法……都市部を流れ、著しく市街化が進行し、水害発生時に大きなダメージをもたらす河川及びその流域において、浸水被害から国民の生命、身体又は財産を保護する
ため、当該河川及びその流域をそれぞれ特定都市河川及び特定都市河川流域として指定し、浸水被害防止のための対策を推進し、公共の福祉の確保に資すること
を目的として制定された法律。(町田市ホームページより)
⑤鎌倉街道(上の道)
鎌倉街道は、「鎌倉幕府と武蔵府中を結ぶ道として造られ」(森山兼光『町田郷土誌』p.45、久美堂、1996)、建武時代には「中先代の乱」の合戦が町田地域でも行われた。現在では、新道は片側1車線から2車線であり、町田市中心市街地から町田市北部や多摩ニュータウンへ抜けるための、主要な街道の一つとなっている。旧道・古道も一部残されている。
| 鎌倉古道 |
⑥薬師池公園
昭和36年、町田市は薬師池を都市計画公園に決定。51年の開園までに水田もなくなった。1982年「新東京百景」、1998年「東京都指定名勝」、2007年「日本の歴史公園100選」に選ばれた景勝地である。園内中心部にはタイコ橋のかかる池があり、梅、椿、桜、花しょうぶ、大賀ハス、新緑・紅葉等、四季折々の彩が訪れる人々を楽しませてくれる。園内には江戸時代の古民家2棟(旧永井家住宅と旧荻野家住宅)が移築。市制施行40周年記念モニュメント「自由民権の像」が建立された。薬師池公園は1961(昭和36)年に風致地区に指定され、周辺は「七国山周辺観光施設整備計画」のひとつとして整備が行われている。
昭和36年、町田市は薬師池を都市計画公園に決定。51年の開園までに水田もなくなった。1982年「新東京百景」、1998年「東京都指定名勝」、2007年「日本の歴史公園100選」に選ばれた景勝地である。園内中心部にはタイコ橋のかかる池があり、梅、椿、桜、花しょうぶ、大賀ハス、新緑・紅葉等、四季折々の彩が訪れる人々を楽しませてくれる。園内には江戸時代の古民家2棟(旧永井家住宅と旧荻野家住宅)が移築。市制施行40周年記念モニュメント「自由民権の像」が建立された。薬師池公園は1961(昭和36)年に風致地区に指定され、周辺は「七国山周辺観光施設整備計画」のひとつとして整備が行われている。
| 薬師池公園 |
⑦町田リス園
約200匹のリスとふれあうことができる。
約200匹のリスとふれあうことができる。
⑧町田ぼたん園
民権の森公園の一部をボタン・シャクヤクが開花する時期に合わせて有料開園。園内にはボタン、約330種類1730株とシャクヤク約40種類570株を有している。関東で最大級の規模。
民権の森公園の一部をボタン・シャクヤクが開花する時期に合わせて有料開園。園内にはボタン、約330種類1730株とシャクヤク約40種類570株を有している。関東で最大級の規模。
⑨七国山
薬師池公園西側にある七国山は標高128.4メートルの山で、かつては相模、甲斐、伊豆、駿河、信濃、上野、下野の7つの国を眺めることができたことから、峠にその名が付けられたという。周辺一帯の丘陵地帯には美しい農村の風景が残っている。
七国山鎌倉街道の碑の石碑のある場所は切り通しの道のため遠方の景色は見えないが、昔はこの峠を通るたびに、人々は眼下に広がる遠くの国々の景色を眺め、さまざまな思いを巡らせた。ここは鎌倉から町田、府中、所沢を通り高崎へとつながる鎌倉街道上ノ道の古道跡。石碑のそばには、鎌倉時代に掘られたという古い井戸が残っており、かの新田義貞が元弘3年(1333年)に鎌倉攻めの軍を率いて通行した際、ここに井戸を掘り、軍馬に水を与えたと伝わっている。
薬師池公園西側にある七国山は標高128.4メートルの山で、かつては相模、甲斐、伊豆、駿河、信濃、上野、下野の7つの国を眺めることができたことから、峠にその名が付けられたという。周辺一帯の丘陵地帯には美しい農村の風景が残っている。
七国山鎌倉街道の碑の石碑のある場所は切り通しの道のため遠方の景色は見えないが、昔はこの峠を通るたびに、人々は眼下に広がる遠くの国々の景色を眺め、さまざまな思いを巡らせた。ここは鎌倉から町田、府中、所沢を通り高崎へとつながる鎌倉街道上ノ道の古道跡。石碑のそばには、鎌倉時代に掘られたという古い井戸が残っており、かの新田義貞が元弘3年(1333年)に鎌倉攻めの軍を率いて通行した際、ここに井戸を掘り、軍馬に水を与えたと伝わっている。
⑩今井谷戸
鎌倉街道の交差点名にもなっている。この付近が恩田川源流近くの谷戸である。谷から台地に向かう斜面に向かって閑静な住宅地が広がっている。この交差点の東側には藤の台団地が、西側には町田木曽住宅、町田山崎団地がある。
⑪藤の台団地
1970(昭和45)年に入居を開始した団地。起伏のあるところに立地。団地の中央付近に八百屋、豆腐屋、肉屋、クリーニング店などの日常生活になくてはならない店舗が数店集積している。町田市の団地は、1958(昭和33)年、多摩地域初の東京都住宅供給公社による高ヶ坂団地造成を皮切りに、住宅公団などが鶴川団地、山崎団地、町田木曽団地などを造成した。1973(昭和48)年、小山田浄水場からの利根導水により水不足解消が解消され、団地造成が進んだ。土地の低い場所には防災調整池がある。これは、以前、山林であった場所を宅地などに開発すると、降雨時、地下に雨水が浸透しにくくなり、浸水の恐れがあるため、貯留できるようにした施設。町田市内に50以上もの防災貯水池がある。
⑫恩田川
恩田川は鶴見川水系の河川。本町田地域、特に本町田東小学校の西側では大雨浸水対策として、川を暗渠・下水道化し、さらに、親水施設として、せせらぎをつくっている。このあたりは谷底であるが、住宅地が広がっている。
●バス移動
⑬カリヨン広場
小田急町田駅東口を出たところにある交番前広場。昭和30年ごろはここに新原町田駅前バス停があり、通学バスであったボンネットバスが商店街を往来していた。商店街の店の軒先にバスがぶつかってしまい、みんな壊れていたという。混雑解消のため、1958(昭和33)年に広場横の道が一方通行となり、のちの45年に歩行者天国となった。ここに絹の道の記念碑がある。
小田急町田駅東口を出たところにある交番前広場。昭和30年ごろはここに新原町田駅前バス停があり、通学バスであったボンネットバスが商店街を往来していた。商店街の店の軒先にバスがぶつかってしまい、みんな壊れていたという。混雑解消のため、1958(昭和33)年に広場横の道が一方通行となり、のちの45年に歩行者天国となった。ここに絹の道の記念碑がある。
⑭原町田中央通り(町田街道)
町田街道の旧道でかつては神奈川道とも呼ばれていた道の原町田部分。鎌倉街道の一部でもあった。現在では小売店、飲食店、娯楽施設などが立ち並ぶ商店街であり、古くからの個人商店も多い。平日も休日も多くの人でにぎわう。この道沿いには、1582(天正10)年に月三回の原町田の市(二の日に開かれた)が開かれたといわれる。明治初めになって、生糸を生産地の北関東や甲信地方などから輸出拠点の横浜港に運ぶための輸送路として町田街道が使われるようになった。その輸送路は「絹の道(シルクロード)」と呼ばれる。原町田はその中継地点となり、町田近辺でも養蚕業者が増えたこともあり、繭や生糸の取引が増えたため、市日が月六回に増え、二の日と六の日に市が開くことから「二・六の市」として発展した。今日においても、戦前創業の店が数多く存在している。1908(明治41)年の原町田駅(当時は横浜鉄道株式会社八浜線の駅)開業でさらににぎわいを増した。小田急線開業とともに、にぎわいは西側にも広がった。1958(昭和33)年、混雑にともない一方通行化され、五間道路とよばれる新しい町田街道が市街地を迂回するように作られた。
| 原町田中央通り |
⑮大型商業施設(デパート等)
JR町田駅北口から小田急町田駅西口にかけてデパート、ファッションビル等の大型商業ビル(小田急百貨店、ルミネ、丸井、東急ツインズ、109、ジョルナ、モディなど)が立ち並んでいる。小田急百貨店は町田駅周辺では唯一の百貨店であり、婦人服・紳士服、食料品などを扱っている。その他の商業ビルも個性を見せるが、若者向けの衣料品店、雑貨店などが多くを占めている。
⑯セーフティーボックスサルビア
2004年に設置された全国初の民間交番。民間交番運営委員会によって一般市民ボランティアで運営され、JR町田駅周辺を見守る。町田駅周辺は治安状況が悪かったが、地域の方々による巡回パトロールや東京都の条例整備などでだいぶ改善された。
2004年に設置された全国初の民間交番。民間交番運営委員会によって一般市民ボランティアで運営され、JR町田駅周辺を見守る。町田駅周辺は治安状況が悪かったが、地域の方々による巡回パトロールや東京都の条例整備などでだいぶ改善された。
⑰かけ足通り(マラソン通り)
現在のターミナルロード商店街。小田急線と横浜線の町田駅が離れていたため、乗り換えの人が走ったことから、マラソン通り(かけ足通り)などと呼ばれた。
⑱町田駅(国鉄原町田駅、小田急線新原町田駅)
1908(明治41)年、現在のターミナルプラザ付近に原町田駅(当時は横浜鉄道株式会社八浜線の駅のち国鉄横浜線)が開業。1927(昭和2)年には、小田急小田原線新原町田駅が現在の位置に開業。1967(昭和42)年、市から市議会に商店街周辺の再開発構想が提出された。1980(昭和55)年、再開発事業により、小田急線新原町田駅と約700メートル離れていた原町田駅は現在の場所まで300m移動し、両路線ともに町田駅と名称が変更になった。原町田駅近くの商店街は、「国鉄原町田駅周辺地区斜陽化防止対策実行委員会」を結成し駅移転に反対したが、中央改札とターミナル改札の二つの改札口を設ける「両口大駅案」を採用することや、国鉄の駅と小田急線の駅をドッキングしないことが決められ、一応の決着となった。ターミナル口付近にはターミナルプラザなどが建てられ、再開発されたが、現在では人通りが少なくなってしまっている。一方、JR町田駅中央改札北口から小田急線町田駅西口までの間にはペデストリアンデッキがつくられ、乗り換え客や付近の大型商業施設を行き来する人などで、にぎわっている。
⑲境川
二級河川。特定都市河川及び特定都市河川流域に指定されている。境川の改修により地域が入り組み、日常生活や土地利用に不都合を生じている方の要望に応えるために行政境界の変更を順次行っている。
以上、町田巡検の概要でした。
こちらは巡検時に配布したレジュメを再構成したものです。
まだまだ、調べ、学び、考えるべきことが多そうです。
今回、調べたこと、巡検したことを踏まえ、さらに地理学を深めていきたいと思っております。
ありがとうございました。
参考文献・資料
・林陸朗著『町田―歴史と文化財―』1980、有隣堂
・町田の歴史をたどる編集委員会著『増補 町田の歴史をたどる』1992、町田市教育委員会
・森山兼光・小島政孝監修『町田観光ブックレット』2010、町田市観光コンベンション協会
・森山兼光著『町田郷土史』1996、久美堂
・堀江泰紹著『はじめてのわかりやすい町田の歴史』1990、国書刊行会
・総務省統計局「国勢調査」1955年版~2010年版
・『マイライン東京時刻表201 4年4月号』2014、交通新聞社
・町田の歴史をさぐる編集委員会著『町田の歴史をさぐる』1978、町田市
・町田商工会議所ホームページ「通り名で道案内マップ」http://www.machida-cci.or.jp/download/1203/torina.pdf
・町田市ホームページhttp://www.city.machida.tokyo.jp/
・町田市観光ガイド「町田ウォーキングルール別紙1」
http://machida‐guide.or.jp/common/img/img_walking_rule/001.pdf
・高木喜成著『まちだの寺院・神社』
・町田市都市づくり部地区街づくり課著『町田市景観みちしるべ 景観づくりガイドライン』町田市発行
・『町田市立自由民権資料館パンフレット』町田市立自由民権資料館
・大島暁雄著『上総掘りの民俗』1986、未来社
・『上総掘り 伝統的井戸掘り工法』2000、千葉県教育委員会
・『養老川下流域の上総掘り』地引尚幸 帝京平成大学紀要第18巻 2006年12月
・横浜線沿線 公園探訪
- 薬師池公園natsuzora.com/may/park/yakushiike.html
(2015/3/3閲覧)
・『町田市中心市街地活性化基本計画』1998年11月、町田市
・『東京生活 2006 no.17 特集 町田完全読本』えい出版社
・『今までなかった町田を愛するガイドブック 町田本』えい出版社
・『保存版 ふるさと町田』郷土出版社
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