去る6月21日、市川市は妙典駅に午前10時に集合して市川巡検が始まりました!
最初に三年ねぎしが市川市の人文地理分野の概要を、Eが自然地理分野を説明しました。以下がその内容です。
(市川市立図書館http://www.city.ichikawa.lg.jp/library/より)
市川市は、千葉県の北西部に位置する市。チーバくんのお口あたりですね。ってか、舌が浦安市だったんだ・・・
人口約47万人と、千葉県内では千葉市、船橋市、松戸市に次いで第4位。
JR総武線・京葉線・京成線などの鉄道網、幹線道路が東西方向に走っております。
東京とのつながりが強い故に、交通網が東西方向に走っていて南北交通が弱いんですよね。江東区なんかも同様の問題を抱えております。
で、市川市ってどこにあるの?といいますと、だいたい都心(皇居)から17kmくらい。円にしてみると、北は蕨、西は吉祥寺、南は羽田空港がおおむね同じ距離に位置しております。なんとなく想像がつきました?
市川市は過去3回(関東大震災、WWⅡ、高度経済成長期)の急激な人口流入があり、スプロール化が問題となっております。
東京に通勤する人がめっちゃ多く、平成22年国勢調査においては、東京都特別区部(23区)への通勤率は46.5%!さすが「千葉都民」であります。
矢印は通勤・通学人口の移動の数字を示しております。みんな東京行き過ぎィ!(さすが千葉都民(二回目))
ちなみに市川市は自然地形的にも人文的にも南北差に富んだ地域です。今回の巡検で南部を午前、北部を午後とざっくりわけたのもそういう意図があったりなかったり…。
市川市北部は下総台地の西端に属し、南部は東京湾に面する低地となっていて、北部から順に、下総台地、その段丘(河成と一部沖積)、砂州、沖積低地、干拓地、埋め立て地となっています。(「発見 市川の自然」p102より)
(突然白黒になったのはスキャン料金をケチっ(略))
因みに地質に関しては以下のようになっています。市川市の地域が古くから海の影響を強く受けてきたことがよくわかりますね。

(「発見 市川の自然」p103より)
※午前ルート※
妙典駅→江戸川スーパー堤防→行徳可動堰→寺町通り→権現道→行徳街道→常夜灯公園→行徳駅→ヒーラモスク→ヒラハラルフード→行徳駅
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午前の部は三年Eと二年ぶんけんの担当でした。ブログだと流れがわかりにくいので先に行徳地域の概要だけ書いちゃいます。
(行徳地域の概要)
「行徳」…市川市の南部、江戸川(江戸川放水路)、旧江戸川以南の市川市の地域を指す呼称。
・地区の北半分は沖積低地(行徳低地)、南半分が干拓、埋め立てによる造成地
・昔は江戸、現在は東京の影響を大きく受けている地域
・東京メトロ東西線の影響大(昭和44年行徳駅開業)
行徳地区は江戸時代以前、旧江戸川と東京湾に挟まれた細長い湊であり、そのため行徳の中心も現在の東京都江戸川区南篠崎・東篠崎の本行徳中洲と呼ばれた地域にありました。
行徳の人々は干潟を利用して製塩を行い神明社の神事の塩として納め、年貢として支払いました。なお製塩が盛んになるにつれ、1570年には「行徳」という土地が現在の本行徳(行徳地区北東部)に移され現在の行徳地区の土台となりました。
江戸時代になると徳川家康が軍事、経済的側面から天領として行徳を保護、一層製塩が盛んとなりました。また成田山参詣のルートとしても栄え、行徳は最盛期を迎えました。しかし明治に入ると、幕府の援助によりかろうじて津波の被害から立ち直ってきた製塩はすたれ始め、その中心は船橋へと移動し、さらに1917年の大津波により壊滅的な打撃を受け、1929年、製塩地整理により行徳製塩は終焉を迎えることとなりました。
そうした状況に加え、鉄道網の普及により水運が衰退、それまで水運の恩恵を受けて発展してきた行徳町は衰退し、以後東西線の開通まで停滞期を迎えることとなります。
1955年、京葉工業地帯の一環として工場を誘致し財源確保をめざすため、市川市は行徳地区を合併、1959年より埋め立てが、1966年から79年までに区画整理が行われました。さらにこの途中、1969年に東西線が開通、行徳駅が建設されると急激に行徳地区は「復興」、市街地化、ベッドタウン化が進行し、現在へと至っています。
さて、巡検では市川市の概要について説明した後、妙典地区のスーパー堤防に向かって歩き出しました。

(江戸川と新行徳橋)
スーパー堤防は妙典駅の開業に伴って行われた土地区画整理事業の一環で、江戸川放水路沿いに、約1㎞にわたって整備されました。
この後、上流側に向かって歩くと、途中でスーパー堤防区間が終わり、通常堤防に切り替わります。ここは、整理事業区画と旧来の市街地の境目で、ここより上流の地域では、スーパー堤防導入に反対の意見が多かった為、通常堤防のまま残っています。境目がかなり顕著に分かります。(スーパー堤防の意味…)

この可動堰は、通常時には閘門は閉じられており、ここより河口までは海水が入り込み、言わば入り江のようになっています。そのため、干満の差を利用した潮干狩りや、海の魚を釣ることができたりするため、巡検当日は小雨にもかかわらず一定数の行楽客が出てきていました。
ここからは堤防を離れ、堤内地側へ進み、旧行徳街道の名残を見学に行きました。向かった地区は、寺町通りと呼ばれ、江戸から成田山参詣の中継地点として、江戸時代に大いに栄えました。その人々を当て込んだ多くの寺が街道沿いに立ち並び、今でも行徳地区のほとんどの寺がここに集中しています。

さらに進んで、家康が東金に鷹狩りに向かった時に使ったとされる、権現道と呼ばれる細道を通り抜けました。2010年に市川市が整備を行ったため、民家の裏手ですがその道筋がきちんとわかるようになっています。


あざとい暗渠の上で一枚!
そしてその後旧江戸川沿いの常夜灯公園付近まで足を進めました。この公園のシンボルである常夜灯はかつて、江戸日本橋から新川・小名木川を通ってきた舟客が下船する河岸に設置されていました。ここから人々は行徳街道を通り、成田山へと向かっていったそうです。

「江戸名所図会」より「行徳舩場」(http://massneko.hatenablog.com/entry/2015/01/06/210000より)
ここから江戸時代には成田山参詣に向かう人でにぎわったとされる行徳街道を横切って行徳駅前に向かいました。

(行徳街道は昔の道らしくとっても狭いところにバスとトラックと小学生が通ります…怖い。)
行徳駅は昭和44年(1969年)開業で、駅前の地名が行徳駅前となっているのは土地区画整備事業の関係です。なぜ土地区画整備授業が行われたかというと、大規模な地盤沈下により水田の多くが沼となってしまったこと、工場用地化、宅地化が無秩序に進行しつつあったことが要因だったそうです。
行徳駅を抜け、いかにもな直線の道路を歩いていくと住宅街の中にこんなものが…!
このモスクはヒーラマスジド(行徳モスク)というモスクで現在この地区一軒だけのモスクとなっています。モスクとはご存じのとおりイスラーム教の礼拝所であり、ムスリムたちが生きていくうえで欠かせない場所です。
一軒アパートのようにも見えますが、入り口が男女できちんと分かれている、ミナレット(尖塔)の存在からモスクであることがよくわかります!
※現在千葉県内にあるモスクは5軒(http://www2.dokidoki.ne.jp/islam/benri/benriindex.htmより)
そしてそのすぐ近くにはハラルフードのお店があります。
ハラルフードとは禁食の食品を用いていない、食肉処理が戒律にのっとり行われている等、イスラームの戒律に適した食品の総称です。
※現在千葉県内にあるハラルフードの店は二軒、その二つともが行徳地区にあります。(タウンページ調べ)
好奇心旺盛な地理研民がお店の売り上げに貢献してきたところで午前の巡検は終了、お昼を食べつつ午後の集合場所市川駅と向かいました!

※午後ルート※
市川駅→I-linkタウン→新田春日神社(市川砂州)→真間川沿い(市川真間駅北側の宅地)→亀井院(真間の入江、真間の井)→真間山弘法寺→(菅野駅:外環)→京成八幡→本八幡
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午後の部は三年ねぎしと二年にしだにバトンタッチです。
午前と同様市川市の概要について説明したあと、みんなで「I-linkタウン」の展望台に上りました。
入場無料でなかなかの眺望を得られるスポットなので、おすすめですよ!
昔の彼氏や彼女と訪れた、あんなとこ(スカイツリー)やこんなとこ(東京湾)なんかも見れます!リア充の方々は次にデートに行く場所でも探してみてくれ。
展望台では、目下建設中の東京外かん道路や、この後回るスポットの説明を行いました。

展望台から降りた後、今度は市川駅の説明をしました。
明治27(1894)年に開業した市川駅ですが、現在の高架構造になったのは昭和47(1972)年で、このとき、高架下にスペースが出来たのでShapo市川(エキナカの商業施設)が入りました。駅舎の高架化にかぶせる形で、駅北口の再開発も進みました。そのときに開業したのがダイエー市川店です。
それに対して南口は最近再開発が進んだ地区となっています。南口には2つの高層ビルとそれを結ぶペデストリアンデッキ、ロータリーがあり、西側の建物は先ほど登った展望台の下に分譲マンションと食品スーパー、コンビニや図書館など市の施設が入居し、一方、東側の建物はURの賃貸住宅と高齢者施設、商業施設で構成されています。まとめると南口の再開発は、住宅が中心でその利便性を支える各種施設が配置されている、という感じですね!東京近郊のベッドタウンですからね、住宅需要があるわけです!

巡検では南口から北口に抜けた後、ロータリーを時計回りに一周し、北口から東に出るアイアイロード市川という商店街を抜けて新田春日神社に向かいました。商店街を抜けると住宅地がつづいており、北側には段差の大きい時間貸し駐車場や階段があり道路より高くなっていることがわかる。そう!ここが!市川砂州と低地の境界だ!!!

市川砂州とは、京成線と総武線の間に挟まれたまわりの低地より2〜3m高くなっている砂質地のことです。砂州は日本だと天橋立など海沿いにあるのが普通で、市川砂州のようにやや内地にあるのは珍しいですね。この砂州の存在は大昔にその横の低地が海であったということを示しているわけです。
ちなみに市川砂州の区域を特定する方法として、地質以外にクロマツの分布を利用する方法があります。これは明治時代に、微高地で砂質地でもある市川砂州の上は果樹園として使われ、そのため海からの風よけのためにクロマツを植えたと言われていることより、クロマツが分布するところと市川砂州の区域は一致する、というわけです。大正3(1914)年には京成線が開業しこのあたりが便利になると、果樹園のあったところは邸宅街となり、果樹園は市の北部である市川大野の方へ移転、さらに、高度経済成長期になると東京大都市圏の人口はさらに増加が進み、住宅需要が高まった結果、水田として使われていた砂州のまわりの低地の宅地化も進みました。このあたりは特にニュータウンというわけではないが、東京都心からの交通の便がよく、住宅地の需要が高かったことがよくわかりますね。

新田春日神社にて市川砂州の説明を行いました。足元には砂地、見上げればクロマツとこの地域の特性がよくわかる場所ですね。
新田春日神社から、市川真間駅を超えて高級住宅街を歩き、真間川まで来ました。
ここで、【京成電鉄の宅地開発】について説明しました。
京成電鉄は、成田山への参詣客輸送に端を発した大手私鉄でございます。
このパートを書いている私(ねぎし)が12年間お世話になった路線でもあります。東急や小田急などの西側の私鉄と比べたらちょっと地味で・・・なんて話したらブーイングを食らったのですが、西側のキラキラとは違う味を出してると思います。よ。
現在は北総線の終点・印旛日本医大駅から成田空港まで線路を延伸して、成田スカイアクセス線として運用し、JRやバスとのバトルを制しようと頑張っています。
京成線は、上記のように「参詣客輸送」が目的だったため、東京の西側の私鉄と比べると宅地開発の時期が遅く、小規模です。京成線が通っている地域が江戸川・荒川沿いの低湿地で、水田地帯が多かったために大規模な開発が難しかったという理由もあります。
また、京成一社だけでは大規模な宅地造成が難しかった(土地の値上がりや、法律のため)ため、県や公団に要請して八千代台、青戸、常盤平などの団地を作っています。

(左・八千代台駅開設直後の付近住宅)
真間川と交差する大門通り(真間山弘法寺への参道)を曲がり、弘法寺方面へ。

真間川にかかる「入江橋」を渡るとつぎはしが出現しました。これらはかつての真間の入江の名残です。市川砂州の形成と海面の後退とによって、台地と砂州の間の低地は侵入した海水の塩分が薄まり、淡水化することで入江状の湿地となった、というわけです。

また、台地のすぐ手前にある亀井院には真間の井という井戸があります。ここの立地(台地の崖下)から考えて、湧水があることはまあ、当然の帰結ですね。
来た道を引き返して素晴らしい階段を上るとそこは真間山弘法寺です。【真間山弘法寺】は奈良時代に建立された、日蓮宗のお寺です(え、奈良時代に日蓮宗ないじゃんと思った方はぐぐろう)。
伏姫桜と呼ばれるしだれ桜が有名で、春になると観光客が押し寄せます。
ここで、一同記念撮影!

台地を切り通しになっている道で降りて京成国府台駅へ。
ちなみに京成本線で京成八幡まで移動する間、菅野駅で外環の工事関係者がいるのが確認できました!のってるよ!外環!

(菅野駅の上に架かる、建設中の外環道)
京成八幡駅に到着し、改札にて本八幡一帯の再開発の説明をしました。

本八幡駅周辺は、JR・京成・都営新宿線がの3線乗り入れる好立地です。ここに、住宅やオフィス、商業施設を兼ねた建造物を作る複合開発計画が立てられ、ほぼ完成しております。
この後本八幡駅まで移動、本八幡駅にて市川巡検は終了、解散しました!
雨の中、長い長い巡検に付き合ってくださった参加者の皆様、ありがとうございました!
そしてここまで読んでくださった方、ありがとうございます!!









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