2014年2月23日(日曜日)品川・目黒巡検の午後の部の内容を報告します!
午後は大井町から恵比寿までを歩きました。
午前に歩いた品川宿は江戸時代の宿場町なのでいろいろと取り上げられるスポットですが(目黒区民としてこれは非常にうらやましい)、品川区中部から目黒にかけての地域は「目黒?寄生虫館しかないだろ?他なんかあんの?」(いのうえ2013)と言われる地域です。
でも! 確かに!! 目黒はぱっとしないですけど!!! 地理的な事象をかいま見れるスポットがたくさんあるんです!!!!
☆品川・目黒巡検午後の部のルート☆
大井町駅→☆おおまかな地域概要と地域の背景☆
まずはじめに巡検した地域の地域性を確認しておきたいです
今回の巡検の地域は東京の中心部から約6,7kmほどの場所にあります
この図からわかるのですが、江戸時代には東海道と中原街道と目黒道沿いに江戸の市街地が連続し、目黒川まで続いていた。目黒川は市街地と近郊農村を分ける自然障壁となっていた。ということがわかります。つまり
- 目黒川以北の特に目黒通り・東海道沿い→江戸から続く市街地(大名屋敷)
- 目黒不動→郊外の門前町(観光地)
- 品川宿→郊外の宿場町(観光地)
- それ以外(特に目黒川以南)→純近郊農村
- 大名屋敷→豪邸などとして利用される例も多かった
- 目黒川流域→工場が建ち並ぶ
- 目黒川以南の純近郊農村→急速な宅地化
これを頭に入れた上で ではでは、まわった順番に説明していきたいと思います♪
☆巡検のポイント☆
大井町駅近くで昼食をすませたちりけん一行。さっそく、午後の部が始まりです。大井町駅から西に向かい、大井町線の下神明駅をくぐります。
①古戸越橋
住宅街の真ん中にある、ぱっと見違和感ない風景ですが、
よ~く見るとちょっと変です。
橋が...橋が埋まっていますΣ( ̄□ ̄)!
この橋は古戸越(ことごえ)橋という橋で、もともとはこの橋の下には川が流れていたそうです。文献によると川の流れは用水路なんだそうですが、ただここで疑問に思うことがあります。どういうことかと言いますと、この土地は周囲に比べて標高が低くなっており、谷のようになっています。なので人の手によって用水路が引かれる前に、もとから自然河川が流れていたのではないでしょうか。このことは多くのサイトで指摘されていることなのですが、品川区の図書館で調べてもめぼしい情報は出てきませんでした。川があった当時の写真などもないそうです。情報をお持ちの方はコメント欄にお書きいただけると幸いです。
*筆者が最初この橋を発見したときは感動を抑えきれませんでした。ちりけんでは筆者のように暗渠好きの他、鉄っちゃんや高低差マニアなど多種多様な趣味人が在籍しています。
暗渠好き・坂道好き・鉄道好き・高低差好きはちりけんにいらっしゃ~い(ノ´▽`)ノ
②補助26号建設現場
横須賀線の踏切から西に伸びている、せま~い道。こんな幅でも都道なんです。この都道420号線という東京都が管理している道路です。
さらに都道は十字路で折れ曲がり、その先にはなにやら白い板で囲まれた空間が出現します。これは補助26号線の工事現場。都道420号線の一部です。先ほどご紹介したように、都道420号線は品川区の区間では道路がコの字型に折れ曲がり、道幅がせま~くなっています。
↓黄色の道路が都道420号線補助26号線。コの字部分周辺だけ道が細くなっている。
これでは車の行き交いに非常に不便なので、コの字をショートカットするまっすぐな道路を造ろうとしているのです。
道路が整備されて交通が発達するのはとてもよいことですが、ただ暗渠ファンにとっては非常に残念なことがあります。建設中の道路のルートはスリバチ地形の谷底に位置しています。つまり、先ほどの古戸越橋に流れていた水流の暗渠道にピッタリ重なるため、工事によって暗渠道が消滅してしまったのです(+_+)
う~ん、すべての人が納得する公共事業とはなかなか難しいものですね。
今回、我々が訪れる以前の、暗渠道の様子を写真付きでご紹介されているお二人のブログの記事を、許可をいただいてリンクを貼らせていただけることになりました。ひとつは「東京の水 2009 fragments」様、もうひとつは「庵魚堂日乗」様です。ちなみに「東京の水 2009 fragments」管理人でおられる本田創様は『地形を楽しむ東京「暗渠」散歩』という本の著者でもおられます。お二人の記事は、今は失われてしまった風景を見ることができる、非常に貴重なものです。みなさま是非ともご覧下さい。この場を借りてお二方に心よりお礼申し上げます。
⇨「東京の水 2009 fragments」様 古戸越川(1)
⇨「庵魚堂日乗」様 行ってきました古戸越川
③戸越公園
工事現場の先には、
![]() |
| 戸越公園。江戸時代は戸越屋敷と呼ばれていた。 |
水をたたえた庭園に行き着きます。ここ「戸越(とごし)公園」はもともと熊本藩の大名細川氏の別荘のようなところで、昭和の初めに当時の所有者の三井家から寄贈されました。もともとは先ほど見た地図の、都道のコの字部分全体がお屋敷だったそうですから、とてつもない広さです。
| 戸越屋敷の復元模型。南方向から (品川歴史館所蔵。許可を得て掲載) |
細川氏といえば最近都知事選に立候補された細川護煕氏、熊本といえばゆるキャラのくまモンですが、お二人のコラボはまだのようです。
| こちらは東方向から見た写真 |
さて、ここで疑問を呈したのが、ちりけん内において「殿」と呼ばれている大物会員。彼が発した一言は、
~なんでこんな場所にお屋敷があるの???~
確かに、この戸越公園は東海道、中原街道(*1) から離れた場所にあります。それに文献によっては、この池を作るためにわざわざ三鷹から用水路を引いたとのこと。なぜわざわざそんなコストのかかることをしたのか。
(*1) 中原街道・・・東海道のバイパスに当たる道。品川区内では五反田から旗の台を通っている。戸越公園からは遠くはないとはいえ、若干距離がある。
考えられる理由は3つ
1)鷹狩りに使うため→当時品川の丘陵地帯は鷹狩りが盛んだった。鷹狩りを終えたあとで立ち寄る休憩所や鷹狩りを終えた後の将軍を接待する場としても使えたのでは。
| 模型の中に「御鷹部屋」という表示を発見。鷹を飼っていた場所? |
| 馬飼所という表示もある。馬は移動用にはもちろん、鷹狩りにも欠かせない。 |
2)東海道・中原街道のちょうど真ん中に位置している→細川家が江戸に来るとき使うのは当然東海道なので江戸に入る前に立ち寄ることができる。また何かの都合で中原街道を使う際もアクセスがよい。また街道に近いということは、庶民も立ち寄れるということである、庶民がのこのこと足を踏み入れないような場所に屋敷を作る必要があった?
3)もともと池に水が湧いていたので庭園にしやすかった→この戸越公園から続いている谷は水の流れが土地を削り取ったものとすると、水の出所である戸越公園にはもともと水源があったと思われる。だが、屋敷の建設時にわざわざ品川用水が引かれている。池の水量が足りなかったのだろうか。もしかしたら池は枯れていて、用水を引いて池に水を満たしたのかもしれない。そして排水用に自然河川を使ったのだろう。だが水量が足りないのであれば、ほかの水量が多い池を選べなかったのか。
うーん。まだまだ自分の勉強が足りないと自覚しました。精進精進!!
④戸越銀座商店街&武蔵小山商店街(パルム)
戸越銀座も武蔵小山商店街(パルム)もかなり長い商店街です。
どちらも、もともと明治おわりには水田・畑が広がっていました。
しかし、関東大震災とそれとほぼ同じタイミングでの鉄道開通による急速な宅地化により急に商店街ができました。
人が住むようになる→物が必要→商店ができる
みたいな。
戸越銀座も武蔵小山商店街(パルム)も関東大震災によって東京市街から移住してきた人によって商店街が発展してきたという歴史を持ちます。
もともと戸越銀座は細長い谷戸地形の谷地型水田だったので、銀座の関東大震災のがれきで埋め立て商店街ができました。
そこから戸越“銀座”と命名され、これが日本初となる○○銀座となりました。
武蔵小山商店街(通称パルム)には現在250店舗ほどが加盟しており(公式に加盟しているお店なので実際にはもっと!?)、800mという長いアーケードがあり、多くの人でにぎわっています。
⑤品川用水跡
目黒川と立会川に挟まれた地域は武蔵野台地上で水が得にくい地域です。そこで江戸時代に作られたのが品川用水!
玉川上水を境村(今の武蔵野市・境)から分水していた仙川用水を野川村で分水←複雑し玉川上水から水を引いてきた用水路です。これは畑を潤すとともに、戸越公園にあった大名屋敷の庭園にも引かれていて、最後は目黒川に流れていました。
この品川用水は宅地化により不要になり埋め立てられ跡形もないですが、妙な曲がり方をした広めの道路として残っていたりします。
⑥補助46号
何度も言いますが関東大震災・鉄道開通を契機に急激な宅地化が進行しました。
その結果、耕地整理はしたものの急速な宅地化のために木造密集地域が誕生してしまいました。
で、その木造密集地域の災害時の延焼を防ぐために現在作られているのが、補助26号や補助46号といった道路です。
もともと家が並んでいた所を無理矢理立ち退かせて道を作っているので不自然に細い道が出入りしている様子が見られたりします。
⑦林試の森公園(元林業試験場・谷戸地形)&羅漢寺川暗渠
林試の森公園は1900年に農商務省林野整備局が目黒試験苗園とし「林業試験場」と名を変え1978年まで林業の試験場として使用されてきました。
その後2000年から都立林試の森公園として開園しました。
目黒川の支流の羅漢寺川の支流が林試の森公園内に谷戸地形(→国分寺巡検参照)を作っています。
![]() |
| 羅漢寺川暗渠に謎のベンチ… |
⑧元競馬場
ここには明治40年から昭和8年まで、山手線目黒駅の近くで、農村で大きな土地が手にはいることから、競馬場がありました。
この競馬場では第一回・第二回日本ダービーが開催(!)されましたが、宅地化が進んできたために府中に移転してしまいました。
しかし、競馬場外周の道路・記念碑が残っています。
⑨目黒不動
江戸時代に陰陽説に基づき江戸周辺の5つの寺に色が割り振られ黒・青・白・黄・赤の五色不動とされていました。
そのうちの一つ目黒不動です。
創建は800年頃とも言われています
このお寺は台地と谷(羅漢寺川が開析)にまたがって作られています。そうなるとどんなイベントが発生するかというと・・・
崖ができて湧水が出てくるんですっ!
本堂前の階段(男坂)の下に湧水(滝)とそれをためた池があります。
関東ローム層に染みこんだ水が、その下の帯水層にためられ、その下の粘土層(上総層群)との間から湧き出てきた結果がこれです。
また、目黒不動は江戸時代には観光地として大変栄えたお寺で江戸時代から門前町が栄えていました。
⑩電車道
歩道を含め最大幅員18メートルの立派な道が全長600メートルで不自然にとぎれています。
これは戦前、市電路線を目黒不動前・さらには池上まで延長するために買収した軌道敷用地が路線廃止に伴いそのまま道路になったという遺構です。
⑪目黒川
目黒川をはじめとする武蔵野台地や多摩川右岸の丘陵・台地地域では
南向き斜面:急/北向き斜面:緩
という非対称の谷が多く見られます ex)早稲田北側の神田川
これは偉大な貝塚爽平先生の 南向き斜面の方が霜食作用により寒暖差が大きく凍結融解しやすく侵食が大きくなり急斜面となる とする説が有力です。
また、目黒川流域は
- 第一次世界大戦以降の近代工業発展により東京市内の工場が手狭になった
- 目黒川流域は交通・運輸上の条件からみて都心に近い地域←市場に近ければそれだけ運賃も安く、労働者も通勤しやすくて有利…目黒駅・恵比寿駅が近い、大崎駅(貨物駅)の存在
- 地代が比較的安い←川の周りの湿った所は住宅地として借り手がない
- 目黒地域の立地条件の向上←電気ガス水道の整備・目黒川の改修
- 動力源・運輸手段(水運)としての目黒川
- 水田地帯は区画整理が早く終わっていた→工場敷地にすぐに転用できる
- 水田があるだけで広い土地があった
⑫雅叙園
日本で最初に誕生した総合結婚式場です。
明王院跡にあります。明王院跡は本堂は小さく、後ろの3758坪を大名の抱屋敷として薩摩島津家・熊本細川家・盛岡南部家に貸していました。
そのあとが雅叙園となっています。
⑬行人坂&権之助坂&大円寺
現在の目黒通りは江戸時代には目黒道(二子道)と呼ばれ江戸と郊外を結ぶ重要な道でしたがそれが通っていたのが行人坂です。
農民が大八車等で野菜を江戸に出荷する際に避けては通れない難所でした。
行人坂は坂の途中にある大円寺の修行僧たちがいたことに由来します。
実際に登ってみましたが、かなり急な坂です。
この急な坂を回避するために作られたのが権之助坂です。行人坂よりかなり緩やかです。
権之助坂の名前は地主の権之介さんに関する由来がいくつかあります。
また大円寺から明和9年に出火した火事は江戸を焼き尽くしました。
このことは逆に江戸の市街地が目黒川までは広がっていたことを示す証拠でもあるんじゃないかなとも考えられますね。
⑭目黒駅
目黒駅は目黒区ではなく品川区上大崎(大崎は隣の隣の駅)にあるという意味不明な立地をしています。
⑮茶屋坂(目黒のさんま)
茶屋坂の“茶屋”は一軒の茶屋が坂の途中にあったことに由来します。
まぁ、この茶屋が舞台となった落語「目黒のさんま」で「目黒といえばサンマ」という話ができました。
この鷹狩りに関する地名として目黒には「鷹番」という地名が残っています。
是非地形図で探してみてくださいね♪
それと、目黒駅周辺では「目黒のさんま」にちなんで、目黒駅東側は品川区・目黒駅前商店街振興組合「目黒のさんま祭り」,目黒駅西側から少し離れた目黒区民センターでは目黒のさんま祭気仙沼実行委員会が「めぐろのSUNまつり」が異なる日に開催されています。
⑯三田用水
江戸時代には江戸の人口は増加しました。
もちろん人が生きるためには水が必要ですが、江戸は台地には水がなく、沿岸部は海水が出てくるわで、神田上水・玉川上水で水を供給しますが、それだけでは三田・芝の地域がまかなえないんですね。
結果、江戸の初期に玉川用水を下北沢で分水し開通したのが三田用水です。
これは後に廃止されますが、その後改修され、灌漑用水として農業を潤しました。
地図上で見ると目黒川に近いところを平行していて、水ならあるじゃん、って思いますが、茶屋坂でわかるように目黒川とはものすごい高低差があります。
目黒川と渋谷川の谷の間の尾根沿いを通っています。
明治以降は目黒火薬製造所(跡地に立地する自衛隊施設が茶屋坂上から見えます)や日本麦酒醸造会社工場などの工業用水として利用され目黒の工業の立地要因のひとつとなり大きな役割をはたし、昭和49年に閉鎖されました。
⑰恵比寿ガーデンプレイス(サッポロビール工場跡地)&恵比寿駅
東京ではかなり有名な複合施設「恵比寿ガーデンプレイス」。
今回の巡検のゴールです。
この「恵比寿ガーデンプレイス」はサッポロビール(元 日本麦酒醸造会社→日本麦酒株式会社→大日本麦酒株式会社→日本麦酒株式会社)のビール工場跡地が再開発された施設です。
この工場では明治23年から「ヱビスビール」という商品(会社名ではなく商品名です)が作られており、もともと下渋谷という地名でしたが、工場で作られていた商品(ビール名)から「恵比寿」という地名になったというおもしろい話もあります。
また恵比寿駅も最初はビール出荷専用の貨物駅でした。
地理研は
「わぁイルミネーション綺麗だね♪はーと」
とか言っているリア充大学生サークルではありません。
地理を愛してやまない地理充サークルです。
ちゃんとビール工場の立地条件を確認しましょう!
- 市場指向型産業…原料の水が普遍原料であるため消費地(都市)の近くに立地した方がいい
- 原料の存在…原料の水が三田用水から得られる。使った水を目黒川に排水しやすい
- 輸送…山手線のすぐ横で出荷しやすい
- 広大な土地…ビール工場ができた頃はただの農村で大きな土地が手に入りやすかった
☆巡検のポイント☆
ナビゲーターとして今回伝えたかったのは
A)人文地理的なポイント
- 江戸時代の地域構造がある出来事を契機に一気に都市化が進んだ
- 武蔵野台地の東端を目黒川などの川が削った様子とその地形条件の人文地理へのつながり
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地理研は、 年 中 新 歓 期 です。
活動に興味のある方は、
geo.wasedaあっとまーくgmail.com
までご一報ください。
地理に興味ある、地理が好きであればどなたでも。大学・学部・学年不問です。
①お名前
②大学・学部・学年
をわすれずに(^0^)
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