2014年7月6日日曜日

砂町巡検(2014年12月6日(土)投稿)

こんばんは
2年のいのうえです。

寒くなってきましたね。コートが手放せません…
もう、すっかり冬ですが、7月6日の巡検の記事を今さらながら投稿させていただきます。

本巡検は江東区砂町地域を舞台にした巡検で、2014年8月10日に溝手正儀さんをお迎えして、開催した講演会『砂村新左衛門と新田開発~歴史と地理~』に向けての予習として、行われたものです。巡検には溝手さんもお見えになり、活発な議論が交わされました。

溝手さんについてはこちらを詳しくご覧ください。
HP(砂村新左衛門のすべて);http://www2.bbweb-arena.com/iaponia/index.htm

ということでサクッとどんな巡検だったか、ご覧いただければ幸いです。
(ほぼレジュメのままでごめんなさい…)

 
実施日:2014年7月6日(日)

テーマ:江東区砂町地区(主に北砂・東砂・南砂)の土地利用の転換
    旧版地形図からの情報の読み取り



比較に用いた地形図:明治42(1909)年・大正14(1925)年・昭和7(1932)年・昭和12年(1937年)・昭和40‐41(1965‐1966)年


ルート:①南砂町駅→②南砂3丁目公園→③海岸堤通り→④日曹橋交差点→⑤東陽四丁目の階段→⑥南砂二丁目住宅→⑦南砂緑道公園→⑧仙(疝)気稲荷神社跡→⑨境川交差点→⑩砂町銀座商店街→⑪治兵衛稲荷神社→⑫北砂五丁目団地→⑬金魚池→⑭小名木川→⑮アリオ北砂→⑯小名木川クローバー橋



砂町とは?
東京都江東区東部の北砂、東砂、南砂、新砂を合わせた地域の通称である。
江戸初期の新田開発によって、近郊農業が盛んになり、明治期には水運の良さなどの理由から工業が発達した。なお、現在には工場跡地を転用した大規模住宅や大型商業施設が卓越する地域でもある。 近年、中高層マンションの建設が相次ぎ、人口が増加しているエリアである(地区内人口:約12万人)。 また、工業地帯であったことの後遺症として、ゼロメートル地帯となっているのも特徴である。

①南砂町駅
帝都高速度交通営団(現東京メトロ)東西線の駅として、1969年に開業した駅である。国鉄(現JR)総武線のバイパスとして建設され、千葉北西部と東京都心部を結ぶ役割を果たしている。
千葉北西部での宅地開発や葛西・西葛西・南砂町などでの高層マンションの増加や他の路線よりも安く設定された運賃、原木中山-木場間に並行・接続路線がないことなどを原因に慢性的に混雑しており、それに伴う遅延が常態化している。
※地下鉄1位、私鉄1位、全路線中3位を誇る混雑 (朝の混雑率、木場→門前仲町:199%(2007))
現在、ラッシュ時の遅延緩和のために南砂町駅改良工事が行われており、1面2線から、2面3線にすることによって交互発着が可能になる予定である。
・浸水対策
 ゼロメートル地帯にあるため、対策を講じなければ、雨が降った際に駅に水が流れ込むこととなるため多くの対策が講じられている。
一つ目は入口のかさ上げである。駅の入口が階段数段分高くなっている。また、入口を閉め切るための防水扉や止水板(高さ35cm)をはめるための溝も見ることができる。なお、止水板は標高が周囲より低くなっている駅や隅田川以東の地下鉄駅には必ず備わっている設備である。

②南砂3丁目公園
砂村新田→日曹製鋼の用地?→南砂3丁目公園
a.東京都南砂町地盤沈下観測所(T.P. -2.2m)
公園敷地内には、昭和29年より地盤沈下量と地下水位を計測している東京都南砂町地盤沈下観測所がある。
図のポールは上から、外郭堤防、大正6(1917)年台風の高潮最高水位、昭和24(1949)年キティ台風の高潮最高水位、大正7(1918)年時の地表面)、満潮時海面、東京湾平均海面(T.P. 0m)、干潮時海面を表している。即ち、この場所が干潮時海面よりも低いということ
を表しているのである。この場所は埋立地であるため、本来、満潮時海面よりも高かったはずであるため、地盤沈下を示唆している。

※大正7(1918)年より累積で4.5132m沈下
 
地盤沈下の主な原因としては工業用水としての地下水の過剰な汲み上げと水溶性天然ガスを採取するための地下水の汲み上げが挙げられる。


☆地盤沈下と砂町の工業史

ü  江戸期 鋳造業(銅銭)、醸造業、造船業(木造・小型)

ü  明治初期(産業革命前期)~ 紡績や食品(鈴木製糖所、帝国製粉など)を中心とする軽工業

ü  明治後期(産業革命後期)~ 深川を中心に重化学工業が発展

 ←・「殖産興業」政策・水運の便の良さ・大都市東京の周縁部(消費地かつ、労働力供給地)

  ・農地、武家屋敷の存在(用地買収がしやすい)

   ※大正初期から砂町地域で地盤沈下を確認(大正7(1918)年より計測)

ü  震災後 深川区での宅地化(公害が顕著に)、規模の拡大に伴い砂町・臨海部へ移転

ü  戦時  軍需産業を中心に重化学工業(汽車製造、東芝砂町工場など)が発展

ü  終戦前後 戦災による工業の停止のため地盤沈下が収束

ü  戦後  高度経済成長に伴う工業の発展

※地盤沈下が急速に進行

ü  1961年 工業用水法に基づき、地下水取水制限

※一時的に地盤沈下は収束するも再び、急速な沈下

ü  1972年 天然ガス採掘権を江東区が民間から買収

ü  1972年以降 地下水取水制限強化


※地盤沈下の終焉(南砂では累積4.5132m)



 
l  砂村新田
江戸初期の万治年間(1658-1660年)に砂村新左衛門主導の下、砂村新四郎を中心に開発された新田である。おおよそ境川(現清洲橋通り)と海岸と中川(現荒川)と十間川(現横十間川)に囲まれた地域に該当する。この砂村が砂町の由来となっている。また、新田開発といっても稲作ではなく、野菜の栽培が主である。
 開発された理由としては、大消費地江戸の中心部に非常に近いことや江戸から出る糞尿や生ごみを肥料としてふんだんに使えること、水運の便が良いといったことが挙げられ、近郊農業地域として発展することになった。また、海に近いため、稲作に不向きで、屋探栽培されるようになった。主に砂村葱や砂村西瓜、針ヶ谷胡瓜、小松菜などが栽培されたようである。
 また、ほとんど知られていないが砂村新田のあたりが日本初の促成栽培が行われた地域と考えられている。江戸ごみを用い、温室温床栽培が行われていたようである。発熱させたごみの上に種を蒔き、土とむしろを掛けて障子で覆い、発芽させる。そして、保温に注意し、日中2時間程度日に当てるだけで、後は寒さをしのぐために油障子で覆ったようである。この「はつもの」は江戸で持て囃され、高値で取引されたため、出荷日を統制する御触れが出たほどである。
 
③海岸堤通り
 昭和20年代までの海岸線であり、堤防の外側には1924年から1948年まで砂町海水浴場があり、海水浴の他に潮干狩りやビリヤード、テニスが楽しめたと小説・随筆家の永井荷風の記述がある(「元八まん」)。
 しかし、海水浴場を主催していた青年団の衰退や工業化に伴う海水の汚濁によって、廃止となった。
 
④日曹橋交差点
GHQによって解体された15財閥のうちの一つである日曹コンツェルンから分離した日曹製鋼(工場ができた当初は大島製鋼、日曹製鋼は現大平洋金属)にちなんだ地名である。日曹製鋼の工場自体は大島にあり、現在は大島四丁目団地となっている。日曹が現南砂3丁目のほぼ全域に当たる毛利家の下屋敷地を工業用地として、取得したことによる。バス停と交差点の名称として残るのみ。交差点は中央部に向けて盛り上がっており、橋があったころの名残となっている。



旧版地形図と見比べると運河にかかる橋の遺構であることがわかる。
 
⑥南砂二丁目住宅
 1976年に完成した3839戸が入居することができる非常に大規模な集合住宅である。建設主体は東京都住宅供給公社であり、汽車製造東京工場の跡地が転用された。また、住宅内には38のテナントが入り、小学校が2校、中学校が1校、郵便局も同時につくられた事も特徴である。
 
l  雁行型住宅
各住戸を斜めにずらすことによって、通気性、採光性が上がる。
l  下駄履き型住宅
1階に商店を配置した集合住宅。
l  防災拠点としての団地
不燃中高層住宅を独立して複数配置し、中央を広場にして、広域の避難所としている。いわゆる、防火壁や火除け地としての役割を果たしている。
l  二つの小学校
大規模団地で同時に住宅内に小学校や中学校が建設されることは珍しくないが、ここでは南砂東小と南砂西小の2校が同時に開校した。団地であるが故に児童数の減少は必然であり、2000年に統合され、南砂東小の跡地に南砂小が開校した。南砂西小の土地はそれ以来、避難場所としての扱いではあったが、亀戸の浅間堅川小の仮校舎として、利用された。
 
l  浅間堅川小学校
1926年に浅間小として開校し、1981年に生徒数の増加を理由に、堅川小が分離開校した。1988年には浅間小に603名在籍、堅川小に347名在籍したが、2001年には浅間小に190名、堅川小に126名の在籍と見込まれたため、浅間堅川小として2000年に統合された。2003年の児童数は261名にまで減少したものの大規模住宅の完成で2012年には児童が660人にまで増加し、キャパシティを大幅に超過し、校舎の増築を迫られ、一時的に南砂西小の跡地へ移転した。
 
cf.  豊洲小学校
豊洲小も大規模住宅の増加によって児童の急激な増加が起きているが、将来の児童数の減少を見越して、プレハブの仮校舎での授業を一部、行っている。
※ベビーブーム時にも見られた現象である。


 
ü  江戸期 江戸の発展により、江戸に近い方から宅地化が進む
ü  明治期 工場増加に伴い多くの労働者が流入
→住宅不足 
→東京市営住宅の建設(市営古石場住宅、清澄庭園店舗住宅など江東地域で755戸)
ü  震災後 多くの住宅に被害
    →住宅不足 →政府による同潤会の発足(清砂通りアパート、猿江共同住宅など1577戸)
ü  戦後  戦争による住宅の焼失、疎開者の帰京、戦地からの復員・引き揚げに人口
の増加
            →住宅不足 →都営住宅の建設(5団地で528戸) →日本住宅公団の発足(5団地で916戸) →鉄筋コンクリートによる不燃中高層住宅
ü  昭和40年代~ 大規模工場の転出
        ←1959年「首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律」(工場の新増設の制限により設備投資意欲が減退)
        ←1967年「公害対策基本法」
        ←1969年「東京都公害防止条例」
             →公害(大気汚染(光化学スモッグ)・水質汚濁・地盤沈下・粉じん・騒音・振動など)を減らすための大きな企業負担
         →工場の移転した土地大規模住宅(東京製壜→北砂四丁目団地、大林組東京製作所→南砂五丁目団地など)
 
ü  平成~ マンションの急増

      →2004年 4年間限定で「マンション建設計画の調整に関する条例」
       (町のバランスの崩壊を防ぎ、公共公益施設への受け入れ不能を防ぐため)
      →2007年 上記条例を廃止
      →2008年 「マンション建設計画の事前届け出等に関する条例」
       →公共公益施設の整備状況とマンション建設計画の調整




⑦南砂緑道公園

日本橋-錦糸町駅前を結んでいた都電38系統(1972年廃止)の専用軌道跡を緑道公園化したものである。都電廃止の理由としては輸送量の増加に対応しきれなかったことや自動車の増加に伴い交通渋滞の原因となったことや渋滞により速達性がなくなったことが挙げられ、都営バスに代替されるようになった。

 

⑧仙(疝)気稲荷神社

1659年に砂村稲荷神社として高潮の水害を防ぐことを目的に創建された。文化・文政期(1804‐1830年)に疝気(下腹部痛)に霊験のある神社として広まり、特に洲崎遊郭(パラダイス)に近かったため遊女に人気があった。日曹製鋼が土地を売り、南砂三丁目アパートが建設されたため取り壊され、習志野へ移転した。

 

⑨境川交差点

1930年に境川が埋め立てられ、清洲橋通りとなった。畑の減少によって、農業用水の需要が減じたこと、舟運が減じたこと、水害対策を理由に埋め立てられた。境川とは砂村の八右衛門、久左衛門、亀高、大塚の4つの村の南の境に流れているためについた名称である。

 

⑩砂町銀座商店街

 1930年発足の地域密着型の商店街であり、高度経済成長に伴い、1963年ころより店舗数が増加し、長さ670m、店舗数約180の原型がつくられた。

 最寄駅である都営新宿線西大島駅まで徒歩20分というアクセスの悪い土地にあることや2010年にすぐそばに開業した大型ショッピングモールであるアリオ北砂の存在があるものの衰退は認められない。ロスを出さないための徹底的な売り切り商法を行うことによって安価で販売することや各店舗にキャラクター性があること、食品がほぼ全て手作りであるといった武器を活用し、近年ではメディア露出も多い。

 

⑪治兵衛稲荷神社

 かつての新田の名前が現在に残っている例であり、慶安年間(1648-1652年)に創建されたと伝わっている。

 

⑫北砂五丁目団地

 松平冠山の屋敷地→鈴木製糖所(日本精糖株式会社→大日本精糖株式会社(現大日本明治精糖株式会社)→東京芝浦電気砂町工場→北砂五丁目団地

l  松平冠山

松平冠山屋敷跡

l  日本初の精製糖工場

明治の発明家鈴木藤三郎が小名木川の舟運の良さに着目し、当地に日本初の精製糖工場を建設した。これが小名木川沿岸の工業化のきっかけとなっている。

※徳川吉宗がサトウキビ栽培の実験をした砂糖にゆかりのある土地でもある

l  東京芝浦電気砂町工場

1941年に製糖工場を買収し、タングステンやモリブデンの精錬を始める。戦局の悪化による軍需工場化し、隆盛を誇ったが、戦後の規制の強化などを理由に昭和40年代に撤退した。

l  北砂五丁目団地

昭和47年完成し、日本住宅公団が建設主体となった。戸数は2781戸と大型で、下駄履き型住宅で、防災拠点でもある。

 

⑬金魚池

 北砂五丁目団地の一部をはじめ、砂町には金魚などの養殖池が明治から昭和にかけて見受けられた。日本金魚界の父、秋山吉五郎の存在や屋敷地が多かったため、趣味で金魚が育てられていたこと、大市場の江戸の郊外であることやゼロメートル地帯であるため、池や沼が多かったためと推測される。1893年ごろよりアメリカへも輸出していたようであるが、工業化に伴って、衰退した。

 

⑭小名木川

 1590年に徳川家康が江戸入城をしたために、多くの住民の流入が起き、物資輸送の必要性(特に塩)が増した。江戸川区を流れる新川とともに江戸への塩のみちとなったことから行徳(塩の産地)川とも呼ばれていた。

 徳川家康の命を受け小名木四郎兵衛が開削したことに由来する。

 塩以外の物資や成田山参詣客の輸送の必要性から1629年に拡幅され、近郊農業化が促進された。また、明治期の工業化にも大きな役割を果たすことにもなった。

⑮アリオ北砂

 久左衛門新田→小規模工場など→小名木川貨物駅→アリオ北砂

l  小名木川駅

1929年に開業したドックを備える水陸連絡貨物専用駅であり、開業当初年50万トン規模の取り扱いだったものが戦時中の1943年には年130万トンもの取り扱いを記録し、戦後も東京湾の拡張に伴い、取扱量が急上昇し、1957年には年200万トンを超えた。亀戸・錦糸町・両国の3駅分の貨物取り扱いも小名木川駅へ集約させ、設備も年290万トンまで耐えられるように改良したものの大工場の郊外移転や輸送形態の変化(水運の衰退)、エネルギー資源の石炭から石油への転換によって輸送量は減少し、1986年には年74万トンまで落ち込み、2000年に廃止となった。現在でも周囲には輸送・倉庫業が集積している。※盛り土に注目

l  アリオ北砂

2010年に開業したイトーヨーカドーと119の専門店街によって形成される大規模ショッピングモールであり、半径3km圏に48万人の人口を抱え、日本随一の巨大商圏となっている。

※近年は工業用地や貨物駅が移転した際、ショッピングモール(一部では高層マンションが付随する)に転用される例が多い

(セイコーインスツル→サンストリート亀戸、トピー工業→トピレックプラザなど)

 

⑯小名木川クローバー橋

 小名木川と横十間川の交差点1994年にかけられた歩行者専用橋であり、猿江・大島・扇橋・北砂の4地域を結ぶランドマークとなっている。

l  横十間川

1659年に徳山重政・山崎重政を中心に開削された。かつての東京市と南葛飾郡の市郡境であり、江戸・東京と郊外を分ける意味もあった。また、江戸城からみて、横に見え(江戸期に江戸を描いた地図は西が上になるものが多い(京都では北が上、大阪では東が上)、幅が十間(18m)であったことからこの名がついた。

参考文献
 藤田清(1984)『南葛飾郡砂町誌』砂町史談会
 江東区政策経営部広報広聴課(2013)『江東区のあゆみ〔2013〕江戸から平成へ』
 江東区編(1997)『江東区史上・中・下』
 青木要之介(1975)『砂町の記録』
 


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