こんにちは、1年の松田と申します。
遅ればせながら、2014年12月14日に実施した文京区巡検のレポートです。
まずは巡検本編をお読みいただく前に、簡単に文京区の概要についてご説明いたします。
文京区は東京23区のほぼ中心、皇居の北の方角にあたる「山の手」の一角に位置しています。面積は11,31㎢(20番目に大きい区)で、5つの台地と神田川、千川と藍染川などにつくられた低地、そして急な崖と坂のコントラストがはっきりした地形になっています。実際、東京には道路を伴う坂の名が433あるといわれていますが、このうち100以上が文京区にあるほどです。ということで、本巡検も「坂と人間」をテーマにしたルートを設定しました。
それでは、下記のルートマップを参照しながら本編をお楽しみください!↓
http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watchid=10ad41f31a0c8dcfcd1c38eb8025d768
Ⅰ.千駄木・弥生・根津・湯島地区
集合場所は、ここ日暮里駅。
| 日暮里駅って何文京区だったっけ...? |
ここで疑問に思った方は鋭いですね。
そう、日暮里駅は文京区ではなく、台東区なのです。
では、なぜ文京区巡検なのに集合場所を台東区にしたのか。
その答えは、最初の巡検ポイントにあります。
①谷中銀座商店街
| 休日は観光客であふれる谷中銀座商店街 |
谷中銀座は、荒川区、台東区、文京区の境に位置する商店街。商店街は台東区となりますが、文京区との境にあるということから最初の巡検ポイントとしました。駅近隣型の商店街である一方で、近くに寺が多いことから参拝客が立ち寄ることもあります。
平成の「谷千根」ブーム(活気あふれる下町の谷中、根津、千駄木を訪れる観光客がふえたこと)
と1996(平成8)年の朝ドラ「ひまわり」の影響から東京が誇る一大観光地となりました。
しかし地元の人にとって生活の礎であることには変わりはありません。20年前と比べ休日
は70%も利用者が増えたのに対し、平日は10%減りました。近隣住民の生活基盤として形成された商店街は、観光地となった現在でもその原点を残すことができるかに注目です。
②よみせ通り
| 下には藍染川が流れている |
谷中銀座を抜けると小さな通りに出ます。
この通りは、1919(大正8)年に藍染川が暗渠化されたとき、道となったこの通りです。夜店
(露店)がたくさんあったことにちなんで「よみせ通り」と名付けられました。通りの中
程に延命地蔵尊が祀られており、この地蔵尊の縁日にあたる毎月24日の午後になると露店
が出店し、その名のとおり、よみせ通りとなります。
☆藍染川
石神井川のかつての本流、不忍池方面に流れる小河川で現在は暗渠化されています。よみせ通りのへび道から川が流れているのが感じ取れます。この川を挟んで東が台東区、西が文京区です。よみせ通りから私たちは文京区に入っていきます。
③団子坂
よみせ通りを抜け千駄木駅方面へ向かうと、不忍通りの対面に坂道が見えてきます。これが団子坂です。団子坂は千駄木駅から本郷通りに向かう坂で、不忍通りと本郷通りという文京区でも交通量の多い二つの道路を結んでいます。団子坂は潮見坂という別名があり、これはかつて、江戸湾が臨めたことに由来します。明治の文豪に好まれたこの坂は夏目漱石の『三四郎』、二葉亭四迷の『浮雲』、
江戸川乱歩の『D坂殺人事件』(D坂=団子坂)など数多くの名作に登場しています。
④千駄木ふれあいの杜
団子坂上を左折し住宅街を歩いていくと、千駄木ふれあいの杜にたどり着きます。
かつて、この周辺には太田道灌の子孫の下屋敷が広がっており、緑が豊かでした。
しかし、明治時代以降宅地化が進みで緑地は大幅に減少していきました。そのかつての面影を知ることができる数少ないところの一つです。
☆崖と湧水
武蔵野台地と東京下町平地の境となる崖には緑地帯が広がっていました。その崖には湧水が見られました。高度経済成長期にかけてほとんどの木々は伐採されてしまいましたが、湧水は未だに存在します。文京区内では根津神社、須藤公園。
かつては潮見小学校でも湧水が出ることが確認されました。
かつては潮見小学校でも湧水が出ることが確認されました。
⑤根津神社
| この池の水は湧水 |
6代将軍徳川家宣の氏神である根津神社。東京十社の一つであり、神威高い名社です。元は千駄木に鎮座していましたが世継ぎが決まった徳川綱吉が根津の地に遷座しました。遷座した1706(宝永3)年のまま権現造りの本殿を始めとした建造物が残っていることから国の重要文化財になっています。本殿に正対して左側を見ると台地と低地をとても感じることができます。
新坂は、本郷通りから根津谷への便を考えてつくられた新しい坂。根津権現(根津神社の旧称)の前に下るため権現坂、また、森鴎外の小説『青年』で「Sの字をぞんざいに書いたやうに屈曲して附いている」との描写があることからS坂とも呼ばれています。
⑦お化け階段
| ちりけんポーズでぱちり。 |
上りと下りで段数が異なるミステリアスな階段。今回はここで記念撮影を行いました。
実は、当会では数年前にも一度ここで記念撮影を撮っているようです。
ブログのバックナンバーから探してみてください。
Ⅱ.本郷地区
言問通りを抜け本郷通りに出ると、本郷地区に入ります。
①返り坂・見送り坂・別れ橋
| 巡検時はちょうど紅葉シーズンでした |
本郷三丁目辺りの本郷通りの僅かなくぼみには、今の東大から菊坂方面へ小川が流れていました。その小川にかかっていた橋を別れの橋と呼びました。江戸時代、罪を犯した罪人が江戸から追放されるときになった時、この別れの橋で放たれ、南側の坂で、親類が涙で見送ったため見送り坂、追放された人がふりかえりながら去ったため見返り坂と呼ばれました。
②菊坂
本郷通りを三丁目方面に進む際、右手に見える菊坂。言問通りまで約600m緩やかに続いています。地名は、昔この辺りが菊畑だったことに由来します。菊坂の地形は台地と低地からなっており、低地には小河川が流れ込んでいました。そのため、今でもこの近辺には水を使う商売が多く、「豆腐屋」や「金魚問屋」、「銭湯」が残っています。坂の南側で菊坂と並行して走る狭い道は、菊坂下道と呼ばれており、この道沿いには樋口一葉の旧居跡や菊水湯という銭湯があります。
③樋口一葉旧居跡
| まるでタイムスリップしたかのよう |
菊坂下町に位置し、現在は一葉も使ったという掘抜井戸のみが残っています。この地域には他にもいくつか井戸が残っており、いくつかの井戸は今でも生活に使われています。この界隈には昔ながらの古い木造建築がまだ残されており独特の風情があります。
④鐙坂
坂名の由来は、鐙(馬の鞍の両側にさげて乗るものが足をかける道具)の職人の子孫が住んでいたからという説と、坂の形が鐙に似ているからという説の2つがある急な坂です。
⑤新坂
このあたりには多くの文人が住んでいました。
Ⅲ.春日・小石川地区
菊坂を下りきり、言問通りに出た一行は、白山通りを経由して再び春日通りを歩きました。
①文京区民センターと真砂市場
真砂市場は、第一次世界大戦の終戦直後の大正時代に国内の消費者物価高騰をきっかけとして、当時の東京市が生活物資の安定供給を図ることを目的に、東京市内各所に公設市場を設置したことに始まります。その後、1947(昭和22)年に文京区に移管され、1949(昭和44)年の区民センター開設とともに1階での営業を開始しました。現在4店舗が営業を続けていますが、建物の老朽化により2016(平成27)年3月に閉鎖されることが決まっています。対角線上に文京シビックセンターが見えるのが何とも皮肉です。
②富坂
| 写真右手に見えるのがシビックセンター |
③礫川公園
礫川公園の名前の由来を説明するために、ここで文京区に流れる川についてお話しします。
文京に流れる千川の名称はは玉川上水の分水である千川上水の余剰水を谷端川に流していたことに由来します。谷端川は普段は水量の少ない河川であったが流域面積が広いため降雨時は多くの水を集めていたので川幅が広く、砂礫が多く堆積した河川だったようです。小石川の別称はまさにそこから出たものでしょう。礫(=小石)の字を用いて「礫川(れきせん)」とも呼ばれています。この小石川が流れていることから、この公園は礫川公園とも呼ばれているわけです。
☆谷端川
谷端川とは、東京都豊島区千早・要町の境界付近にある粟島神社境内の弁天池を水源とし、豊島区・北区・文京区を流れ、水道橋付近で神田川に注いでいた河川です。現在は暗渠化されています。現在ではあまり谷端川という名称に知名度はなく、別称である「千川」や「小石川」のほうが馴染みがあるでしょうか?谷端川は文京区西部の現在の地形に至らしめた大きな要因であると同時に、産業集積にも影響を及ぼしています。特に出版・印刷業の集積にその影響が見られます。また、かつては漁業も活発に営まれていたことが、小石川植物園脇の「網干坂」などの地名からもわかります。
④六角坂
六角越前守の前にあったことが坂名の由来。ほぼ直角に折れ曲がっています。
⑤善光寺坂
坂の途中に善光寺があることから。
⑥慈眼院沢蔵司稲荷
ここの隣にある伝通院の修行僧である沢蔵司を祀ったことから。
ところで、この慈眼院沢蔵司稲荷、なぜか霊窟付近が大きく窪んでいます。
人工的に堀ったものなのか、自然に形成されたものなのか...真相は定かではありません。
⑦共同印刷
千川通りへ出ると、共同印刷が見えます。1896(明治29)年に前身となる博進社印刷工場が播磨田んぼに創設し、1925(大正14)年には、美術印刷中心の精美堂と合併して発足しました。系列企業に共同製本と日本書籍があります。
⑧松平播磨守上屋敷と宗慶寺
1661年に播磨守である松平頼隆が常陸保内藩を立藩したときに、現在の小石川パークタワー付近に広大な屋敷を構えました。松平家は1925年に破産し屋敷の売却を余儀なくされています。
一方、宗慶寺はそれ以前から現在の位置に立地しており、境内からは湧き水(極楽水)が出ていました。しかし、宗慶寺の敷地は松平播磨守の屋敷として召し上げられ、隣の敷地に移ります。それから約80年後の1743(寛保3)年に、松平播磨守の屋敷内の 極楽水 の名は取りやめ、宗慶寺の井戸を「極楽水」と呼ぶことになりました。 以後 200 年間、極楽水は宗慶寺の境内にありましたが、戦後都市計画道路が通り、極楽水は取りつぶし・埋め立て。宗慶寺は再びもとの敷地のはずれに移ります。現在小石川パークタワー内にある極楽水は、1991(平成3)年に再現されたものです。
⑨播磨坂
| 春になると桜並木が見られる |
松平播磨守上屋敷が立地していたことから。戦後の区画整理で環三道路新しく造成された際にできた坂です。播磨屋敷跡を横断するように通っています。1965(昭和40)年ごろから地元の住民がこの坂に桜の木を植えていった結果、「播磨坂さくら並木」として成長し、さくら祭りが実施されるようになりました。
Ⅲ.大塚・音羽・目白台地区
再び春日通に出た一行は、不忍通り→音羽通り→目白通り→新目白通りと歩き、早稲田へと戻ってきました。
①お茶の水女子大学
1874(明治7)年に湯島に設立された東京女子師範学校を前身としています。関東大震災で校舎が消失したことを契機に大塚に移転してきました。なお、東京師範学校を前身とする筑波大学も一部文京区にキャンパスを構えています。
②富士見坂
東京の坂名でいちばん多いのがこの富士見坂。区内でも3か所あります。この富士見坂は
標高28.9mと区内の幹線道路では最高地点となっており、江戸時代から富士山が臨める坂として有名でした。かつてはせまくて急な坂道でしたが、1924(大正13)年10月に旧大塚仲町(現大塚3町名交差点)から護国寺前まで電車が開通し、整備されて現在のように緩やかになり、道幅も広くなりました。
③講談社
音羽通り沿いにはいくつか出版社があります。講談社はそのうちの一つで、1938(昭和13年)に設
立されました。
④音羽
奥女中音羽が拝領した町屋であったことが地名の由来。音羽通りが谷になっていることがよくわかります。
⑤三丁目坂
旧音羽三丁目から、西の目白台に上る坂ということで三丁目坂と呼ばれています。坂下の高速道路5号線の下には、かつて弦巻川が流れていて、三丁目橋(雑三橋)がかかっていました。
⑥幽霊坂
幽霊坂は都内に10か所、文京区内でも3か所と比較的多い坂名です。昼でも暗く薄気味悪いため
幽霊がでてきそうということでつけられた坂名でしょう。
| 目のつけ所で、世界は変わる。 |
以上で文京区巡検レポートは終わりです。
文京区は古今が混在している非常に面白い街です。
そして、前述したように、坂の多い街でもあります。
坂を愛する人々が、坂の魅力を最大限引き立たせるような、
そんな街づくりが行われているように感じます。
坂は、人間の生活の歴史と地形の形成を見せてくれます。
坂を上るとき、下るとき。
ほんのちょっと立ち止まって、人々の生活の営みや地形に思いを馳せてみてください。
きっと、見えなかったものが見えてくるでしょう。
最後までお読みいただきありがとうございました。
※参考文献及び参考資料は割愛させていただきます(文京区教育委員会など様々な資料をもとに書かせていただきました)。

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