2015年4月11日土曜日

2015/4/11新歓新大久保巡検

幹事長のうえですー。

今回は2015年4月11日の新歓:新大久保巡検の報告です!

16名もの新入生に来ていただきました。人が多くてびっくりです。



ということで、まずは早稲田大学の段丘地形から。
大隈講堂が沖積面で、大隈銅像がある面がTc面、16号館があるのがM面というように、階段状になっているのが早稲田の地形になります。
「沖積面とかTc面とかM面とかなんぞや」っていう人は地理研に入ると知ることができます。松田磐余先生の『対話で学ぶ 江戸東京・横浜の地形』を読んでください。



つづいて、高田馬場跡です。江戸時代にはここに、大名が乗馬をする馬場がここにありました。いまでも地図を見れば当時の敷地がくっきりわかりますし、馬場の隣にあったお茶屋さんが「茶屋町通り」と道の名前にもなっています。ここの家こそ、正真正銘の高田馬場に住む人たちです。



高田馬場の横を通る早稲田通りには古本屋が並んでいます。
早稲田大学があるので集積しているのです。もともと、都心への玄関口であった正門から、関東大震災・第二次世界大戦を経て、高田馬場駅へとつづく早稲田通りへと移ってきた歴史があります。
今では、神保町・本郷とならび、東京で有数の古本屋街になっています。



つづいて穴八幡。有名な神社です。それ以外特にないです(笑)


早稲田生御用達の銀のあんの裏にあるかに川の暗渠!



戸山公園ですね。昔は文キャンも戸山公園も尾張徳川家の大名屋敷でした。
名古屋の経済力を背景に豪勢な暮らしをしていた尾張徳川家。
ここ、戸山の下屋敷(江戸城から遠い屋敷。実際は屋敷といっても庭園だったり、屋敷だったり、畑だったりと内容は様々)に東海道を再現しようと、巨大なため池、人口の山(箱根山・山手線内最高峰)等々を造築しました。
明治時代になると、都心に近い広い土地として、陸軍の練兵場となりました。
それが、戦後になると、早稲田大学が近くにあり、また広い土地もあるということで、文教地区として整備することが目指され、広い土地に公園・研究施設・病院(陸軍病院が由来)・早稲田大学・戸山高校・学習院女子大学・・・・などなどが置かれました。
高度経済成長期には、深刻な住宅不足から戸山ハイツとよばれる団地が作られ、今でもたくさんの大型団地が並んでいます。しかし、高度経済成長期にまとめて作られた団地なので、高齢化率が40%を超え、建物も老朽化しており、「限界団地」とも呼ばれています。


韓流ショップ


つづいて、新大久保です。
「新大久保といったら?」って聞くと
「韓国。コリアンタウン」と返ってきました。みなさん若いですね。
一世代上だと「ラブホ。危ない街。」って返ってきます。

みなさんがご名答した通り、新大久保はコリアンタウンとラブホテルの街です。
もともと新大久保は、大久保と呼ばれていた地域です。


江戸の区割りの残る新大久保地域
江戸時代には、江戸防衛のため、百人組という鉄砲隊がここに住まわされました。台地の上で土地が空いていたので。いまでも百人町という地名が残っています。
住むためには屋敷が必要ですが、敵が攻めてきにくいように、入り口を狭くして、奥行きの長い屋敷・区割りを作りました。現在でも地図で確認すると、細長ーく道路が南北に伸びています。
それが、明治時代、そして宅地開発の進んだ大正時代と、時代を下るごとに、もともと細長かった土地がさらに細かく分けられ家が建っていきました。

新大久保
鉄砲隊と言っても下級武士の街であった大久保・百人町地域は、明治・大正になるとその細かくて雑然とした区割りが住みやすかったのか文豪・革命家・宗教家・外国人などが住むようになります。
その後、1956年にはロッテガムの工場(韓国系メーカー)ができ韓国の方が住むようになり、南側で歌舞伎町が開発失敗したため風俗街になり風俗街で働く東南アジア系の方も新大久保に住むようになりました。歌舞伎町の影響でラブホテルが・・・

バブル経済期になって、政府が労働力のために外国人・外国人留学生受け入れの規制緩和政策をして、1980年代に急激に外国人の方が新大久保に集住するようになりました。

外国語表記の不動産業者
バブル崩壊後は土地があぶれ、バブル期に外国の方が多く集住したことを背景に、エスニック店舗ができ始め、エスニックタウンとして有名になるとともに、バブル崩壊の景気の悪さから治安も悪化しました。

その後2000年頃からの韓流ブームで韓国の雑貨・料理のお店がたくさんできて、現在のようなコリアンタウンになっています。
もともと外国人お断りであった不動産業者もむしろ積極的に外国人を取り込もうとするなど、コリアン・エスニックタウンをプラスにとらえる動きがある一方、ヘイトスピーチが行われてしまうなどのマイナスの場にもなってしまっています。

イスラム系食料品店
日本人向けの韓流グッズなどを売るコリアンタウンがある一方で、イスラムの方が食べられる食材を扱うイスラム食料品店など、外国の人が日本で住むにあたってのお店も多数みられます。

この対比を考えると、コリアンタウンは、日本で利益を得ていくための「適応戦略」に基づいた景観であると考えられます。

また、都市の同心円モデルにおいて、都心の周り(都心郊外地域)にインナーエリアと呼ばれる、外国人が集住したり、不良住宅が作られたりする地域が発生するという、理論がありますが、新大久保もそれと似たような性質を持つ地域だとも言えます。


イスラム系食料品店
今回、新大久保を取り上げたのは、新大久保が江戸時代の立地(江戸の西の端にある、台地の上で開発されていなかった)により作られた細長い区割りを現在も引き継ぎ、さらに歌舞伎町が開発失敗したこと・インナーエリアになりやすい都心周辺だったこと・外国人の集住現象、そして日本の経済と国際関係、といったような様々な立地要因・外部要因・環境が積み重なり、現在の景観を作り上げている非常におもしろい地域だからです。歴史と立地と現在の景観とを肌で感じてください。

ちなみに、新大久保の「大久保」の地名の由来は早稲田大学の前を流れるカニ川の作った大きな谷(窪地)です。だからもともとは戸山公園のあたりが「大久保」でした。現在の大久保駅や新大久保駅がある場所は、百人組が住んでいた(大久保)百人町という地域です。
中央線開業に伴い大久保駅が大久保の西のはずれに誕生。「大久保」と「大久保駅」が遠く離れた場所に存在するという状態に。さらにその後、「大久保」と「大久保駅」の間に「新大久保駅」が誕生し、西から「大久保駅(場所は百人町の西の端)」「新大久保駅(場所は百人町)」「大久保(通称"新大久保"地域)」という複雑な地名になってしまいました。




新大久保を抜けて、西新宿7丁目に行きました。
西新宿7丁目にはニッチ需要の音楽関係店舗(輸入のコレクターズ、V系インディーズ、中古レコード)や予備校が町内に集積しています。
iタウンページでは、新宿区内の「CD・DVD・ビデオ・レコード」店は73件で、そのうち「新宿区7丁目」に立地するものは25件もあります。
再開発から取り残され、新宿のメジャーな商業地とも離れているがために、集積メリットのあるニッチ需要の店舗が立地している(?)のではないかとも考えらえます。



その後、山手線沿いの公園を見ましたが、この百人町の山手線沿いには高度経済成長期にどや街・不法占拠住宅街・不良住宅街が形成されていました。
現在はきれいな公園としてクリアランスされていますが、新大久保駅近くに、男性向けの格安宿があることから当時が想像されます。
これもインナーエリアの性質のひとつです。



最後に秣川という川の流れていた跡の道路を歩いて解散です!お疲れ様でした。

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