2015年4月16日木曜日

2015/4/16第二回新歓巡検(早稲田、目白台巡検)

地理研、春の大更新祭り!!…いつも更新が滞ってしまい申し訳ありません。こんにちは、3年のEと申します。今回は去る4月16日に行われた第2回新歓巡検(早稲田、目白台巡検)について書いていきたいと思います。ちなみにこの巡検、約30人という大人数での巡検となりました!新歓をしている側としてはうれしい限りです♡参加してくださった皆様、ありがとうございました!




☆巡検のルート☆

早稲田大学→大隈庭園→かに川→都電荒川線→早稲田アパート→神田上水・関口→関口芭蕉庵→椿山荘→新江戸川公園→水神社→胸突坂→永青文庫→目白台→富士見坂→早稲田大学

☆巡検のテーマ☆

今回の巡検では、早稲田、目白台地域を自然、人文地理的視点から観察するため、両分野でそれぞれテーマを設定しました。
・早稲田周辺の自然地形
→武蔵野台地とそれを侵食した神田川により形成された河川地形
・土地利用の変化
→・早稲田周辺の土地利用の変化(江戸~現在)
・大名や有力者の屋敷の立地、神田川とまち、産業の関係
早稲田、目白台地域は神田川が武蔵野台地を侵食したことにより形成された、高低差のある地域です。この神田川の存在は自然地形的に変化に富んだ景観を形成しただけでなく、この地域における土地利用に大きな影響を与えています。
それでは以下、実際の巡検ポイントに沿って内容を説明していきたいと思います。本来であれば巡検箇所の写真を載せるのですが、可愛い新入生に気を取られてしまい巡検の実施に夢中で写真を撮るのを忘れてしまいました。今回の記事はわらわらと移動する地理研民と新入生の写真のみとなりますがご了承ください…。


<早稲田大学周辺の地形>

早稲田では、神田川が武蔵野面(M 面)を開析して形成された立川面(Tc 面)と沖積面を観察することができます
早稲田大学では、かつてその名の如く、大隈講堂より低い土地には水田が広がっていました。大隈講堂から大隈銅像、そして16号館にかけてスロープとなって徐々に高くなっていく、斜面や崖に建てられた”西高東低”のキャンパスです。(それ故16号館へのアクセスは足腰が鍛えられるわけです) 
また早稲田・神田川周辺を歩いてみると、神田川が一番低いところを流れていて、神田川から離れるにつれ坂が現れ、標高が高くなっていることが観察できます。これは神田川沖積面から武蔵野面(M 面)に上がったことを意味しています。

①大隈庭園

かつては井伊氏・松平氏の下屋敷であり、大隈重信邸の池泉回遊式庭園。大隈重信の没後、早稲田大学に寄贈されました。一説によれば庭園内の池がかつてのかに川の跡だそうです。

②かに川

蟹川、金川、加二川とも表記されているため、ここでは「かに川」で統一します。水源は歌舞伎町付近。新宿区内を縦貫し、神田川に注いでいた小さな川。流路は幾重にも分かれていたこともありはっきりとはわかっていません。このかに川が戸山公園の起伏等を作り出しています。
現在は暗渠化されていますが、①で先述したとおり、大隈庭園やその周りの水は、かに川の跡の可能性があります。また、穴八幡あたりの馬場下町、現在のスロープが流路で、三長庵(前の蕎麦屋)の前に橋跡があったという説も。
因みに戸山キャンパス付近に、目の肥えた人が見れば一発で暗渠だとわかるような小道もあるので、その面影は今もなお伺うことができます。(「川が…川が見える…!(見えない)」)

<都電荒川線>

新目白通りと大隈通りの交差点付近に都電荒川線早稲田停留場があります。都電荒川線は、1933(昭和8)年に王子電気軌道により早稲田まで開通した、現存する唯一の都電です。
かつての馬車鉄道を元に、1903 年の東京電気鉄道開業から1972 年の荒川線を除く都電の廃止まで、東京区部には、事業主が東京市→東京都と変遷しながらも、都電の線路・路面電車網が張りめぐらされていました。しかし、戦後、自動車の普及、自動車交通の隆盛により自動車道がより必要となったため、全国的に路面電車の需要が減少、現在の荒川線を除き全廃となりました。しかしそのなかで、
・線路の大部分が専用軌道(道路とは独立した線路)である
・代替バスを運行できる道路がない
・沿線住民の強い存続要望があった
ことから唯一残っているのがこの〈三ノ輪―早稲田〉間の都電荒川線で、現在も沿線住民の足として重宝されています。

③東京都交通局早稲田自動車営業所・早稲田アパート

都電路線網が東京を張りめぐらせていたころ各地にあった路面電車の車庫は、廃止後、比較的大規模の土地が残り、その多くが都営住宅や都バス車庫、行政施設などの施設に転用されました。特に住宅政策でバスの車庫の上に集合住宅が作られた例は多く、かつての都電早稲田車庫があった場所に、一階が都バス車庫、二階以上が都営住宅として作られた早稲田アパートもその一つです。

<印刷・出版業の集積>

写真がなくて申し訳ないのですが、早稲田地域の神田川周辺を歩いていると薄らと漂うインクの香りとやたらと目につくフォークリフトに気付かれるかと思います。
明治以降、早稲田大学における印刷需要が増して、大学で印刷所を持つ必要性が出てきました。それにより榎町に印刷所、後の大日本印刷が作られることとなりました。それ以来、早稲田の神田川周辺下請けや関連業務の工場が集積し、中小の印刷・出版業が周辺に拠点を置くようになったといわれています。それでは何故、早稲田に印刷・出版業が集積したのでしょうか?それは以下4つの要因が考えられます。
1)情報が手に入りやすい…出版業は市場の情報や流行に左右されやすく、それをいち早く察知できる大都市(またはその周辺)のほうが都合がいい。また、印刷業は出版会社と密接にかかわる必要があるため、共に集積する。
2) 地価が安い…川沿いであるため、都心に近くても地価が安い。
3)染め物産業の名残
4)とくに川沿いは、江戸時代には船に乗って人が情報を行き交わしていたのでその名残もある。
よって、落合周辺、早稲田~神楽坂周辺、飯田橋に至るまで神田川沿いに出版・印刷業が古くから集積してきました。
なお一般的に印刷業は、出版業に密接する業種なので、その近くに立地します。結果、
・市場指向型工業 ……その製品の市場(消費地)付近に立地しやすい工業(例:飲料工業、出版・印刷業)
・情報集約型産業
の特徴が見られます。

<神田川>

神田川は源流の井の頭池から東流する、武蔵野台地でも有数の川であり、都内の中小河川では最大の流域面積を持つ川です。井の頭池から隅田川との合流部へ流れ込む途中で早稲田を通過しており、下流ではもともと江戸城(現在の皇居)すぐ東にあった日比谷入江に流れ込んでいましたが、江戸時代初期に堀の造成に関連して河川改修が行われ、そのまま東流して隅田川に流れ込むように改修され今に至ります。また、神田川は古多摩川がM1 台地面の扇状地を形成した際の流路であった名残川であり、早稲田地域で大きな谷を形成しています。早稲田地域に自然、人文ともに多大な影響を与えたすごいやつ、それが神田川!

各ポイントの説明に入る前に、この地域の特徴的な立地、大名下屋敷の立地についてお話ししたいと思います。
江戸全体の都市構造からみると、早稲田は江戸のはずれの地域であり、そうした地域では大名の別邸・別荘のような家である下屋敷が多く建てられました。(上屋敷:江戸近く・ビジネス的要素、下屋敷:奥さん/子どもを住まわせている、別荘)
また地形的要因としては、台地と谷が挙げられます。台地のような住みやすいところに住みたいという居住環境への志向と、庭園(特に池等がある回遊式庭園)を造りたい、という動機より、大名屋敷は一般的に湧水の得やすい台地から谷にかけて、すなわち台地の縁に立地しています。これは早稲田においても同様であり、豊島台から神田川低地にかけて庭園が広がる椿山荘(後述⑥)を始めとして、多くの庭園が武蔵野台地の末端に位置する豊島台・目白台地の崖線を利用し、斜面から崖下にかけて造園されています。
このように下屋敷等の庭園だったこと、また急斜面であったことから今もなお庭園・公園などとして緑が多く残る地域となっています。
それでは神田川沿いの地域から目白台地域のポイントを見ていきましょう。

④神田上水・関口

神田上水は公共給水を目的とし、江戸時代に完成した日本最初の水道です。神田上水は、東京の東部の方へ上水、つまり人々が使う生活用水を供給するために建設されました。
江戸の人口増加に伴う水不足への対策として、水確保が重要になり、江戸時代寛永年間(1624-43 年)に作られました。その構造は大滝橋に関口大洗堰を設けることで、水位を高め、水を供給するというもので、関口・小日向台地の南端を経て、現在の後楽園内を東西に走る水路をとおり、現在の水道橋下流付近で神田川の水面上を懸樋で横断していました。水道橋の名はこれに由来しています。この神田上水は神田川以南の駿河台・小石川町一帯の市街地や江戸城東(現在の大手町一帯)に給水し、余水の一部は呉服橋付近から外堀に流していました。
因みに大滝橋に堰が設けられた理由としては、江戸時代の水道の給水にはポンプなどが無く、圧力をかけて給水することが出来ず、江戸市中よりも上流で取水して送水する必要があったこと、また、江戸川橋付近までが海水(潮)が遡上してくる感潮限界であるため、潮の影響を受けない江戸川橋よりも上流で取水する必要があったことが挙げられます。
なお、大洗堰周辺には、神田川上水の「取り入れ口」から「関(堰)口」という地名が残っており、安藤広重の「せき口上水端はせを庵椿やま」(名所江戸百景)にも描かれています。

⑤関口芭蕉庵

松尾芭蕉は、2度目の江戸入りの後、1677年から3年間この地に住み、近くの神田上水の改修工事に携わったといわれています。後世の人が、芭蕉が住んでいたことからここを関口芭蕉庵と名づけ、1726年には、芭蕉の木像のための芭蕉堂も建てられました。その後、1938 年、1945 年に戦災などで焼失し、現在のものは第二次世界大戦後に再建されたものとなっています。芭蕉はこの早稲田地域の田んぼを琵琶湖に見立て、周囲の風景を好んだといわれています。

⑥椿山荘

椿山荘周辺は、南北朝時代のころから自生する椿の名所で、古くから「つばきやま」として知られていました。
江戸時代に、上総国久留里藩主黒田氏の下屋敷として作られた後、第3・9 代総理大臣の山県有朋が、この土地(庭園)を自邸として購入、庭園や邸宅を作り、椿の名所であった現地の呼称である「椿山」にちなんで「椿山荘」と名付け別邸としました。
しかし戦災により1945 年に邸宅や樹木は焼失。戦後1948年に、藤田興業(現DOWA ホールディングス)の管轄となり、創業者の小川栄一が名園復興に着手、結婚式場・宴会場として利用され、結婚式・イベント会場、会議場などに使われる「椿山荘」となりました。1992年からはホテル営業も行われており、現在は、ホテル椿山荘東京を併設した庭園となっています。なお庭園内には、武蔵野礫層から湧出する湧水が見られます。
余談ですが、二班に分けたとはいえ、大人数で押しかけたにも関わらず、快く庭園内を見学させていただくことができました。椿山荘の皆様、この場を借りて厚くお礼を申し上げます。ありがとうございました!

⑦水神社

創建年代は不明ですが、神田川上水の守護神を祀っている神社です。伝説によれば、水神が八幡宮司の夢枕に立ち、この地にこの水神を祀れば堰の守護神となり、江戸の町は安泰だと告げたため、水神を祀ったといわれています。
このため上水の恩恵にあずかった神田、日本橋方面の人たちの参詣が多く、また、神田川の流れと早稲田の田んぼ、目白台の椿山、遠くに見える富士山の眺めもあいまって、江戸時代には、この周辺は行楽地となっていました。因みに今はにゃんこスポットです。

⑧胸突坂

胸突坂は、豊島台(M1 面)と、神田川の谷底低地の急斜面に位置する坂です。その名前の由来は、上るのに胸を突くような大変急な坂であることであり、実際登ってみると結構息切れします。(体力がないだけ、ではないです多分…。)
※非対称谷※
早稲田付近の神田川の谷の断面を見ると、左岸(北側の南向き斜面)が急斜面であるのに対して、右岸(南側の北向き斜面)は緩斜面と、非対称な谷であることがわかります。南側斜面にあるグランド坂は比較的緩やかであるのに対し、北側斜面にある胸突坂(⑧)・富士見坂(⑩)は急斜面となっています。(是非一度歩いてみて下さい!)
非対称谷は他の地域でも観察することができますが、武蔵野台地の中でも特に顕著で大規模にみられるのが早稲田地域の特徴となっています。
この成因には主に3つの説があり、一つは、北側〔南向き斜面〕の方が陽にあたりやすく、その結果冬の昼夜の寒暖差が大きくなり、北側斜面の侵食が南側斜面よりも大きくなると言う説であり、同様の現象は広く武蔵野台地、特に目黒川などにも見られると言われています。もう一つは、早稲田は神田川が大きくカーブを描いている地点にあり、その外側である北側〔南向き斜面〕が侵食されやすいために急斜面(攻撃斜面)になり、カーブの内側である南側〔北向き斜面〕は侵食されにくく、さらに堆積作用も加わり段丘が形成され緩斜面(滑走斜面)になるという説です。
3つ目としては、カニ川が南から合流しており、合流した先の北側が大きく削られ、急斜面となったという説です。

⑨新江戸川公園・永青文庫

神田川左岸(北岸)には、江戸時代に細川藩の下屋敷の一つだった敷地、に永青文庫と新江戸川公園があります。永青文庫の名は、8代の墓がある永源庵の「永」と青龍寺(勝龍寺)城の「青」からとられていて、室町幕府三管領のひとつ細川家の家宝を所蔵しています。新江戸川公園は細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした回遊式泉水庭園となっています。

⑩富士見坂

富士山が見える場所であれば、至る場所に富士見坂の名称は存在しており、この富士見坂もその一つです。江戸時代、庶民の間で富士信仰という富士山の山体を神格化し、崇拝する風習があり、そうした信仰との関係でこうした名称が存在しています。

※神田川の河川改修※

いい加減長いよ!もうポイントは終わっただろう!という声が聞こえてくるようですが、もう少しだけ、お付き合いください。神田川はこの河川改修を抜きには語れないのです。

かつての神田川は、大雨のたびに氾濫する「暴れ川」でありました。印刷・出版業の集積のところで、地価が安いと書きましたが、大雨のたびに流されてしまうところには住みたくないですよね。この洪水を防止するため、大正8 年の都市計画法に基づき都市計画事業として計画されて以来、大規模な河川改修が今日に至るまで続けられてきました。川が都市化により暗渠化された箇所や、蛇行していた部分が直線化された箇所などによりそうした改修の跡が確認できます。
例えば、新宿区と豊島区の境界は神田川に沿っており、新宿区と文京区の境界は、鶴巻川に沿っています。旧河道が境界になっていたため、後に河川が直線化されたときに複雑な境界ができあがってしまったのです。実際に区境に行ってみると電灯のデザインの違いから、複雑に入り組んだ境界を見て取ることができる。こうした行政界の複雑さは、しばしば、インフラ整備や土地所有においてトラブルの種となるのも事実であり、町田・相模原両市における東京都と神奈川県の都県境が好例です。
また、神田川と妙正寺川が合流する落合で流量が増し、またそのすぐ下流の高田馬場で左右の谷が狭くなり(高田馬場峡谷)、たびたび洪水を起こしていることから、落合から明治通りまで、神田川の一部の水および妙正寺川を地下でバイパスする高田馬場分水路も作られています。

「水」は神田上水のように人々の命、生活を助ける側面と、神田川の洪水のように、人の命、生活を奪う側面とがあります。神田川が武蔵野台地を侵食して形成された早稲田地域も、その「水」の両面の影響を受け、その地域の特色が作られています。

まとまりのない文章になってしまいました、すみません。
最後までお読みいただきありがとうございました!

※図の引用元
久保純子.1988.『早稲田大学周辺の地形―武蔵野台地と神田川の非対称谷に関連して』早稲田大学教育学部学術研究 地理学・歴史学・社会科学編.37:57-73:図2p

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