2015年12月20日日曜日

船橋・習志野巡検


1220日に年内最後の巡検として、「船橋・習志野巡検」を行いました。こちらの報告をさせていただきます。

 

この巡検では、午前中に県下第二の都市であり、商都として有名な船橋市中心部を、午後に軍郷から文教都市へと変化を遂げた習志野市内を巡検しました。

 

船橋地区


・船橋競馬場

 1917年に発生した高潮で塩田が壊滅し、放置されていた場所に、戦後復興期のどさくさに紛れて1950年に開業した。当初は競馬場内に日本で初めてオートレース場を併設していたが、こちらは1968年に船橋サーキットの跡地に移転した。しかし、船橋オートレース場は収益が落ち込んでおり、施行者である千葉県と船橋市は、2016331日をもっての廃止を予定している。
船橋競馬場


・ららぽーとTOKYO-BAY
 三井不動産が1981年に船橋ヘルスセンター()の跡地に開業。日本の大型ショッピングセンターの先駆けとなった。当時は、京葉線の開業前のため駅から遠い、前例のない広大な敷地、ショッピングセンター事業の経験不足から、成功を疑問視されていた。2000年以降、近隣にはイオン幕張店、コストコ幕張倉庫店、イクスピアリなど同様の施設が相次いで出店し、売り上げの落ち込みが予想されたが、京葉線沿線の集客力が上がったことにより、以前よりも来客数が増加している。
 
 ※船橋ヘルスセンター:千葉県が南関東ガス田の採掘に成功し、ガスと温泉(29)が湧き出たことを受け、船橋市が設置を計画。浴場のほかに大プールや遊戯施設、船橋サーキットも併設する総合レジャー施設だった。
 最盛期には『8時だョ!全員集合』を始め多くの公開放送などの興業が行われたが、1970年代以降のレジャーの多様化によって来場者が減少。さらに、地盤沈下を防ぐためにガス・温泉の採掘が禁止になったことを受け、1977年に閉鎖した。
 

ららぽーとTOKYO-BAY


・船橋港
 昭和43年に千葉港の一部として編入された。臨海部の埋め立てによる企業誘致で発展し、企業専用岸壁が多い。
 一方、古くからの漁業も行われており、江戸前のあさりやノリの養殖を行っている。近年では外来種のホンビノスガイが新たな名物となりつつある。
船橋港
船橋港


・船橋大神宮
 正式名称は『意富比神社』。祭神は天照大御神。
 神話によると、景行天皇40(A.D.110)、日本武尊が東国御平定の際、平定成就と旱天に苦しんでいた住民のために天照皇大御神に祈願したことが由来とされており、延長5年(927)完成の『延喜式』にも記載があり、船橋市では一番大きい神社とされる。
 慶応4(1868)に戊辰戦争で戦火によって消失したが、明治6年(1873)に本殿が造営されて以降、随時造営され現在に至っている。



※灯明台
 境内には江戸時代、常夜灯が整備されていたが、戊辰戦争で常夜灯は社殿とともに消失。これに代わるものとして、船橋の漁師の共同で明治13(1880)に政府公認の私設灯台として建てられたもの。
 擬洋風建築と呼ばれる和洋折衷の建築で、1・2階は和風、3階は洋風となっている。石油ランプ3基と錫製の反射鏡3枚を組み合わせた当時最新鋭の設備を持ち、約6海里先まで光を届かせることができた。






習志野地区

・習志野とは
 習志野という地名は習志野市内に限ったものではなく、近隣の船橋市・八千代市などにまたがる広域の名称「習志野原」が由来である。江戸時代には幕府御用達の牧場として利用されていた。
 明治期に入ると、東京に適度な近さに広大な土地が確保できるとして陸軍の演習場になった。明治天皇が演習を視察なされることもしばしばあり、最初に行われた1873年の大演習の際に明治天皇が命名されたものである。
 陸軍の一大演習地となった習志野は、多くの軍関連施設が点在するようになり「軍郷」と呼ばれた。これらの施設は戦後存在理由を失い、一部が自衛隊の駐屯地、演習地として転用された以外は工場や公園、病院などに転用されたが、中でも多かったのは、教育施設への転用であり、戦後習志野の発展に大きな役割を担った。
 
・習志野学校
 多くの点在した施設の中の一つの中で、この部分の跡地だけはいまだに転用が行われていない。これは当地に存在した習志野学校が731部隊に関連する毒ガス兵器の開発を行っていたことが一因であると考えられる。終戦時に隠蔽のため当施設は放棄され、毒ガス等も処分されたが、その一部が敷地内に埋められたともいわれ、時折、有毒兵器が発見されることもあり、周辺の自治体では、地中から出てきた金属製不審物には触れずに警察へ連絡するよう指導が行われている。
 当地は公開時以外には閉鎖されているが、外からも建物の基礎などを観察することができる。
 
・鉄道連隊と新京成電鉄
戦前の津田沼駅の南には、鉄道に関する戦場での様々な活動を専門とする旧陸軍の特殊部隊、第二鉄道連隊が存在した。現在跡地には千葉工業大学が立地しており、同大学の正門は当時の鉄道連隊の正門をそのまま転用したものである。
この連隊は、1896年に日露戦争での物資輸送力の必要性を痛感した陸軍が牛込河田町の陸軍士官学校の内部に置いた鉄道大隊が、1907年に千葉と津田沼に移転。さらに大正7年にそれぞれが第一、第二鉄道連隊に昇格したものである。彼らは、太平洋戦争期には大陸各地に出動し鉄道の運営や破壊工作に従事した。
また、第一連隊は千葉―津田沼間の路線(習志野線)とその支線(下志津線)、第二連隊は津田沼―松戸間の路線(松戸線)を演習用として持っていた。戦後、習志野線と下志津線は廃線となり道路やサイクリングロードとして活用されている。一方、松戸線は民間に転用され、京成電鉄と西武電鉄の競争の末、京成電鉄が払い下げを受け、跡地の大部分が旅客線に転用され、新京成電鉄として開業した。


新京成線の京成津田沼-新津田沼間は、単線区間となっている


鉄道連隊第一連隊線路跡のサイクリングロード


新京成唯一の単線区間近くの階段で集合写真



・津田沼戦争

 高度経済成長期には、鉄道の営団地下鉄東西線の直通運転や総武線の複々線化が行われ東京へのアクセス性が向上し、習志野市の人口は激増した。

 こうした中で津田沼駅前の商戦は過激さを増し、1977年~78年にかけての相次ぐ大型商業施設の進出により既存店舗を巻き込んでの競争が発生した。この現象を「津田沼戦争」とよぶ。

 その後、競争の結果、北口はイトーヨーカドー、南口はダイエーが生き残った。しかし、ダイエーはその後全国的な業績悪化を受け、2005年に津田沼から撤退し、現在はイオンを中心とした施設となっている。

競争を勝ち抜いたイトーヨーカドー


 

・南関東ガス田

国内最大のガス田は南関東ガス田。ここは水溶性ガスであり、地下水採取を必要とする。習志野市企業局はかつて市産市消でガスを採掘していたが、現在は輸入ガスを取り扱っている。


 

藤崎堀込貝塚

藤崎堀込貝塚は、市街地近くにありながら、貝塚がほぼ無傷で残された貴重な遺跡。隣には富士塚が立地している。


 


・学園おおくぼ商店街
戦前は陸軍御用達の商人、戦後は学生街として発達。現在でも賑わいを見せている。

 
・軍施設の区割りと教育機関
騎兵第一旅団…日大生産工学部
騎兵第二旅団…東邦大付属中高
騎砲兵第二連隊…旧順天堂大体育学部
現在、軍施設の区割りが教育機関に転用され、その歴史を伝えている。

 
・習志野騎兵旅団発祥の地
騎兵旅団指令部。実際に使用されたのは騎兵の時代の昭和初期。現在は公園に転用。

 




・陸上自衛隊習志野駐屯地

かつて騎兵隊が設置されていたこの地は現在、第一空挺団が設置。写真は落下傘の訓練を行う塔。







巡検は以上で終了し、習志野駅で解散しました。今回は見学者の方にもご参加いただきました。
ここまで読んでくださった皆さん、ありがとうございました!
 























0 件のコメント:

コメントを投稿