こんにちは、松田です。
2月13日に2016年初めての巡検となる文京区巡検リバイバルを実施しました。本巡検はその名の通り2014年12月に行われた文京区巡検の春日・本郷エリアのポイントをベースにしています。
(そのときの記事はこちら→http://geo-waseda.blogspot.jp/2015/03/20141214.html)
ただし一部ルートを変更したり、同じ巡検ポイントでも別の視点から観察することで新しさも追求しました。
(そのときの記事はこちら→http://geo-waseda.blogspot.jp/2015/03/20141214.html)
ただし一部ルートを変更したり、同じ巡検ポイントでも別の視点から観察することで新しさも追求しました。
さて、そんな文京区巡検リバイバルのテーマは、「文豪の愛した街本郷」。明治以降、文京区には樋口一葉や森鴎外をはじめ多くの文豪たちが住みました。彼らは文京区でどのように過ごし、何を感じたのでしょう。ちょっと覗いてみることにしましょう。
Ⅰ.春日〜本郷三丁目
文京シビックセンターは、区役所や区民施設の入るコミュニティービル。25階の東・西・北側は、展望ラウンジとして公開されています。東側には東京スカイツリー、西側には新宿副都心と富士山、北側には筑波山等を望む大パノラマが広がります。
これから巡検で歩く場所を上から眺めてみよう。
1630 (寛永7)年に春日局の屋敷地として与えられたことから春日と呼ばれるようになりました(ただし実際に屋敷があったのは現在の本郷一丁目)。春日局は徳川3代将軍家光の乳母であり、大奥の制度を確立した人物としても知られています。
3.礫川公園
小石川台地の東端に造られた公園で、東京メトロ丸ノ内線「後楽園」駅の北側に位置し、周辺には小石川後楽園、東京ドーム、中央大学、文京シビックセンターなどがあります。かつてこの一帯は軍用地(砲兵工場)でしたが、戦後、都営住宅・中央大学・戦没者慰霊堂・公園用地に分割されました。
「礫川」の名前は、礫(=小石)、つまり小石川と同義なのです。小石川という地名は、現在の地名にも残っています。
礫川公園一帯が軍用地だったことは、夏目漱石の小説『こころ』にも記述があります。
ある日私はまあ宅(うち)だけでも探してみようかというそぞろ心から、散歩がてらに本郷台を西へ下りて小石川の坂を真直に伝通院(でんずういん)の方へ上がりました。電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃は左手が砲兵工廠の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地(くうち)に草が一面に生えていたものです。私はその草の中に立って、何心なく向うの崖を眺めました。今でも悪い景色ではありませんが、その頃はまたずっとあの西側の趣が違っていました。(『こころ』)
私はしばらくそこに坐すわったまま書見しょけんをしました。宅の中がしんと静まって、誰だれの話し声も聞こえないうちに、初冬はつふゆの寒さと佗わびしさとが、私の身体からだに食い込むような感じがしました。私はすぐ書物を伏せて立ち上りました。私はふと賑にぎやかな所へ行きたくなったのです。雨はやっと歇あがったようですが、空はまだ冷たい鉛のように重く見えたので、私は用心のため、蛇じゃの目めを肩に担かついで、砲兵工廠の裏手の土塀どべいについて東へ坂を下おりました。(『こころ』)
この後、「わたし」はお嬢さんと一緒に歩いているKと遭遇してしましまいます。
4.富坂(西富坂・飛坂・鳶坂)
鳶が多くいたので鳶坂、転じて富坂になったという説が有力。春日町交差点の谷(二ヶ谷)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂とも呼ばれました。
私は食後Kを散歩に連れ出しました。二人は伝通院の裏手から植物園の通りをぐるりと廻ってまた富坂の下へ出ました。散歩としては短い方ではありませんでしたが、その間に話した事は極めて少なかったのです。(『こころ』)
5.谷端川(千川、小石川)
谷端川(やばたがわ)とは、東京都豊島区千早・要町の境界付近にある粟島神社境内の弁天池を水源とし、豊島区・北区・文京区を流れ、水道橋付近で神田川に注いでいた河川。現在は暗渠化されています。上流では谷端川、下流の文京区に入ったあたりから千川または小石川と呼ばれています。
谷端川というよりも、千川や小石川のほうがなじみが深いでしょうか。千川の名称は玉川上水の分水である千川上水の余剰水を谷端川に流していたことに由来します。谷端川は普段は水量の少ない河川でしたが、流域面積が広いため降雨時は多くの水を集めていたので川幅が広く、砂礫が多く堆積した河川だったようです。小石川の別称はまさにそこから出たものでしょう。
谷端川は文京区西部の現在の地形に至らしめた大きな要因であると同時に産業集積にも影響を及ぼしています。特に出版・印刷業の集積にその影響が見られます。また、かつては漁業も活発に営まれていたことが、小石川植物園脇の「網干坂」などの地名からもわかります。
6.こんにゃくえんま(源覚寺)
源覚寺の閻魔像の右目部分は割れて黄色く濁っています。これは宝暦年間(1751〜1764年)の言い伝えに由来しています。
一人の老婆が眼病を患いこの閻魔大王像に日々祈願していたところ、老婆の夢の中に閻魔大王が現れ、「願掛けの満願成就の暁には私の両目の内、ひとつをあなたに差しあげよう」と告げたという。その後、老婆の眼はたちまちに治り、以来この老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、ずっと閻魔大王に供え続けたという。
以来この閻魔王像は「こんにゃくえんま」「身代わり閻魔」の名で人々から信仰を集めています。現在でも眼病治癒などのご利益を求め、閻魔像にこんにゃくを供える人がたくさんいます。また毎年1月と7月には閻魔例大祭が行われています。
ちなみにこのこんにゃくえんま、夏目漱石の「こころ」や樋口一葉の「にごりえ」などの文学作品にも数多く登場しています。
十一月の寒い雨の降る日の事でした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔を抜けて細い坂道を上って宅へ帰りました。(『こころ』)
お力は一散に家を出て、行かれる物なら此ままに唐天竺の果までも行つて仕舞たい、ああ嫌だ嫌だ嫌だ、何うしたなら人の声も聞えない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何も ぼうつとして 物思ひのない処へ行かれるであらう、・・・横町の闇をば出はなれて 夜店の並ぶにぎやかなる小路を 気まぎらしにと ぶらぶら歩けば・・・(『にごりえ』)
この「夜店の並ぶにぎやかなる小路」がまさにえんま通りです。
菊坂は本郷三丁目交差点から言問通りまでの600mの緩やかな坂道。地名は、昔この辺りが菊畑だったことに由来します。
菊坂の地形は台地と低地からなっており、低地には小河川が流れ込んでいました。そのため、今でもこの近辺には水を使う商売が多く、「豆腐屋」や「金魚問屋」、「銭湯」が残っています。坂の南側で菊坂と並行して走る狭い道は、菊坂下道と呼ばれており、この道沿いには樋口一葉の旧居跡や菊水湯という銭湯があります。
私はとうとう万世橋を渡って、明神の坂を上がって、本郷台へ来て、それからまた、菊坂を下りて、しまいに、小石川の谷へ下りたのです。 (『こころ』)
菊坂下町に位置し、現在は一葉も使ったという掘抜井戸のみが残っています。この地域には他にもいくつか井戸が残っており、いくつかの井戸は今でも生活に使われています。この界隈には昔ながらの古い木造建築がまだ残されており独特の風情があります。
坂名の由来は、鐙(馬の鞍の両側にさげて乗るものが足をかける道具)の職人の子孫が住んでいたからという説と、坂の形が鐙に似ているからという説の2つがあります。
本郷台地から菊坂へと下る急な坂道。現在ではあまりにも急なため53段の階段となり、手すりが設置されています。炭団とは炭に海藻の一種であるフノリなどを混ぜ、球状に固めた燃料のことです。坂名の由来は主に2つの説があります。一つ目は、この地域に炭団売りが多かったからという説。そして二つ目は急な泥坂でころがり落ちると炭団のように泥だらけになってしまうという説です。坂の付近には真砂中央図書館や文京ふるさと歴史館といった区の施設や秩父セメントの創業者の諸井恒平邸、坪内逍遥の旧居跡などがあり、歴史的・文化的景観が豊富な地域になっています。
10.返り坂・見送り坂・別れ橋
本郷三丁目辺りの本郷通りの僅かなくぼみには、今の東大から菊坂方面へ小川が流れていました。そこに橋が架かってあり、それが別れの橋と呼ばれました。本郷三丁目の方から東大の方にかけて緩やかな傾斜があります。江戸時代、罪を犯した罪人が江戸から追放されるときになった時、この別れの橋で放たれ、南側の坂で、親類が涙で見送ったため見送り坂、追放された人がふりかえりながら去ったため見返り坂と呼ばれました。
11.本郷三丁目交差点
1903(明治36)年に市電(都電)が開通してから東京の都市化は急激に進んでいきました。この本郷三丁目は須田町からの市電の分岐点であり、大いに賑わいました。分岐した一方の線路は東大の前を通ってまっすぐ白山へ敷かれる予定でしたが、騒音が講義の妨げになると大学側が猛抗議。結局春日町から小石川へまわり道することとなりました。
Ⅱ.無縁坂~御茶ノ水
さて、ここからは本郷が舞台となっている森鴎外の小説『雁』に沿って歩いてみましょう。
1.『雁』のあらすじ
森鴎外の小説『雁』は文芸雑誌『スバル』にて、1911年から1913年にかけて連載されました。
1880(明治13)年高利貸し末造の妾・お玉が、医学を学ぶ大学生の岡田に慕情を抱き、末造の来ない日に一人で家にいるようにして、散歩に来る岡田を待つ。ところが、いつも一人で散歩していた岡田は、その日の下宿の夕食が偶然、語り手の「僕」が嫌いなサバの味噌煮だったため、「僕」とともに散歩に出た。途中不忍池で、たまたま投げた石が雁に当たって死んでしまう。かれらは無縁坂の中途にあるお玉の家の前を通ったが、岡田が一人ではなかったので、お玉は結局その想いを伝える事が出来ないまま岡田は洋行する。
不運にも命を落とす雁になぞらえ、女性のはかない心理描写を描いた作品である。ただしそれを、岡田の友人が語り手となって書いており、かれらがその当時は知りえないような、お玉と末造とのなれそめ、末造と妻との諍いなども描かれている。これは、語り手がその後お玉と知る機会を得て、状況を合わせ鏡のように知ったのだと、語り手の「僕」は作中で弁解している。
cf) 森鴎外
森鷗外(1862年2月17日- 1922年7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医、官僚。位階勲等は従二位・勲一等・功三級・医学博士・文学博士。本名は森林太郎。東京大学医学部卒業。また、「東京方眼図」と題された地図の編纂者でもあり、小説の中でも鋭敏な地理感覚をもって東京を描き出しています。
1880(明治13)年当時は東京帝国大学医学部の正門でした。現在の鉄門のよりもやや東にあります。岡田たちの住む下宿上条は、現在の南研究棟のところにありました。
3.無縁坂
坂の横にあった無縁寺(現・講安寺)が名前の由来。不忍池から旧岩崎邸庭園に沿って登り、東京大学に突き当たります。物語の中では暗く・寂しい坂として描かれています。
岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。それから松源や雁鍋のある広小路、狭い賑やかな仲町を通って、湯島天神の社内に這入って、陰気な臭橘寺の角を曲がって帰る。しかし仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。(『雁』)
無縁坂は岡田の住む近代的な世界とお玉の住む前近代的な下町の世界の結節点になっています。
旧岩崎邸の敷地は、江戸時代には越後高田藩榊原家(現在の新潟県上越市高田)の中屋敷でした。明治時代初期に牧野弼成(旧舞鶴藩主)邸となり、1878(明治11)年に三菱財閥初代の岩崎弥太郎が牧野弼成から邸地を購入したものです。現存する屋敷などは、岩崎財閥3代の岩崎久弥によってコンドルの設計で建てられ、1896(明治29)年に竣工したもの。
そのころから無縁坂の南側は岩崎の邸であったが、まだ今のような巍々たる土塀で囲ってはなかった。きたない石垣が築いてあって、苔蒸した石と石との間から、歯朶や杉菜が覗いていた。あの石垣の上あたりは平地だか、それとも小山のようにでもなっているか、岩崎の邸の中に這入って見たことのない僕は、今でも知らないが、とにかく当時は石垣の上の所に、雑木が生えたい程生えて、育ちたい程育っているのが、往来から根まで見えていて、その根に茂っている草もめったに苅(か)られることがなかった。 坂の北側はけちな家が軒を並べていて、一番体裁の好いのが、板塀を繞らした、小さいしもた屋、その外は手職をする男なんぞの住いであった。店は荒物屋に烟草屋位しかなかった。中に往来の人の目に附くのは、裁縫を教えている女の家で、昼間は格子窓の内に大勢の娘が集まって為事をしていた。時候が好くて、窓を明けているときは、我々学生が通ると、いつもべちゃくちゃ盛んにしゃべっている娘共が、皆顔を挙げて往来の方を見る。そして又話をし続けたり、笑ったりする。その隣に一軒格子戸を綺麗に拭き入れて、上がり口の叩きに、御影石を塗り込んだ上へ、折々夕方に通って見ると、打水のしてある家があった。寒い時は障子が締めてある。暑い時は竹簾が卸してある。そして為立物師の家の賑やかな為めに、この家はいつも際立ってひっそりしているように思われた。(『雁』)
かつて上野の山は忍ケ岡と呼ばれていました。この地は江戸城東北の鬼門にあたり、京都を鎮護する比叡山に倣い寛永寺が創設されました。不忍池は琵琶湖、中島は竹生島ということなのです。弁財天詣と蓮の名所として知られる中島には水茶屋や料理茶屋が並び、名物の蓮めしや田楽が売られていました。また、不忍池の北からは「お歯黒のような」藍染川が流れ込んでいます。かつては雁がよく見られました。
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| ここらで記念撮影。 |
6.競馬場跡
欧化政策の一環として不忍池池畔で1884(明治17)年から競馬が行われました。不忍池が競馬場地として選ばれたのは交通の便もありますが、パリ・ブローニュの森にあるロンシャン競馬場などを意識し貴族の社交場として競馬場は公園内にあるのがふさわしいと考えたからだと言われています。不忍池の北側は川に通じていたのを埋立、池畔の湾曲していた部分も埋め立てて整形してコースを作り北側に馬見所や厩舎を作りました。明治天皇をはじめ華族、政府高官や財界人を含む多くの観衆を集め華やかに開催されましたが、主催の共同競馬会社は馬券を売ることはできませんでした。そのため収入は会費、入場料、天皇からの下賜金、宮内省、農商務省、陸軍省からの支援に頼っていましたが赤字であり、さらには欧化政策の衰退も相まって1892(明治25)年の秋場所を最後に共同競馬会社による上野不忍池競馬開催は終了ました。現在競馬場跡には上野動物園の敷地となっている。
7.池之端仲町通り
明治から続く繁華街。特にこの池之端仲町通りは本郷から浅草や銀座に向かう人たちの通り道であり、本郷・谷中の人たちのハイカラな買物のできる商店街でもありました。
cf)根津遊郭
元は、根津神社創立ののち、同地は私娼の集まる非公認の遊郭でした。1842年(天保13年)水野忠邦による天保の改革によって禁止され新吉原に移され、のちに慶応年間江戸幕府陸軍奉行の許可を得て遊廓が建設され徐々に繁昌し、明治3年根津八重垣町の両側に桜200余株を植えつけ総門をかまえて新吉原に倣いましたが、元々年限を限って許可した遊廓であり、1888年(明治21年)6月末日をもって撤去されました。
岡田の散歩ルートが根津ではなく本郷だった理由にはこのこともあるのかもしれませんね。
旧加賀藩主前田家上屋敷の御守殿門。1827年に第12代藩主前田斉泰が第11代将軍徳川家斉の第21女、溶姫を迎える際に造らました。建築様式としては薬医門であり、切妻造となっている。左右に唐破風造の番所を置いています。
鉄門は閉まるのが早かったので、岡田はしばしば赤門を利用していました。
9.湯島聖堂
5代将軍綱吉は上野忍岡の林羅山邸内にあった孔子廟をこの地に移し、大成殿と改称して規模を拡大しました。江戸時代末期に幕府直轄の昌平坂学問所が、明治初期に師範学校・女子師範学校が開設された近代教育発祥の地です。
10.本郷大地の開削工事
元和年間(1615~24)江戸城の治水と武家地の拡張を兼ねて、大規模な本郷大地の開削工事が行われ、江戸城寄りを流れていた神田川はいまの水路に付け替えられました。聖橋から水道橋方面の落ち込んだ川べりを眺めると、不屈であった当時の工事をうかがい知ることができます。
いかがでしたか?
本郷は文化の配電盤としての一面と下町的な一面を併せ持つ不思議な街です。都市と作品を結びつける、ちょっと変わった巡検でした。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
ここまでお読みいただきありがとうございました!
参考文献
・文京区 礫川公園
http://www.city.bunkyo.lg.jp/bosai/midori/kuritukouen/kouen/rekisen.html
・こんにゃく閻魔−源覚寺
http://www.genkakuji.or.jp/intro.html
・司馬遼太郎『街道をゆく三十七―本郷界隈』、朝日新聞社、1992年。
・前田愛『幻景の街―文学の都市を歩く』、岩波現代文庫、2006年。
・半藤一利「文明の配電盤としての本郷」、『東京人』70号、都市出版社、1993年。
・江幡潤 『文京区の散歩道ーその歴史をたずねて』、三交社、1975年。
・『文京わがふるさとー変貌する街と住民運動の軌跡』、あゆみ出版、1985年
・森まゆみ 『鴎外の坂』、中央公論新社、1997年。
・『坂道ー文京のくらしと風景』、東京ふるさと歴史館、1999年。
・『本郷界隈を歩くー江戸の名残と情緒の探訪』街と暮らし社、2002年。







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