2016年3月21日月曜日

日本史巡検(深川)

こんにちは。お初にお目にかかる北村(仮名)です。在籍満2年を目前にして初ブログ更新、緊張しております。
2月21日、いつもの巡検とは趣向を変え、日本史的観点から行う巡検を実施しました。その名も「日本史巡検」。安直ですが、地理研では希少な日本史専攻の会員2名によるナビゲートです。

日本史巡検の舞台は江東区・深川。下町風情の残るまちなかを、江戸の面影を探しながら寺社や史跡を巡りました。

お昼過ぎ、東京メトロ門前仲町駅に集合。地上に出るとすぐに最初の巡検スポット…とその前に、深川地域について。



深川というのは江東区の地名です。その成立は非常に早く天正年代、徳川家康の江戸入国まで遡ります。家康は行徳から江戸城内まで塩を運ぶため、行徳川(現小名木川)という運河を開削しました。その際、行徳川周辺地域の新田開発を行ったのですが、開発を任されたその地にすむ深川八郎右衛門を名にちなみ深川と呼ばれるようになったのです。
その後、猟師町、門前町、木置き場など様々な側面を持ちながら、明暦の大火を経て江戸の都市機能が成熟すると深川は江戸市中に編入され、城下のターミナル機能を備えますますの発展を迎えました。


明治維新後、深川区が設置されましたが戦後に近隣の城東区と合併、深川は江東区のいち地名となり現在に至ります。



さて、最初に訪れたのは深川不動堂。千葉県成田市にある成田山新勝寺の東京別院です。江戸中期の歌舞伎人気などで庶民から高い人気を得た成田山は、元禄年間から深川永代寺にて出開帳を行いました。たびたび行われた出開帳は庶民の行楽として隆盛をきわめ、明治時代に入り正式に不動明王御分霊が遷座されました。
木造の建物は旧本堂で、現在の本堂は参道から向かって左、開創310周年記念で建立されたものになっています。




続いて富岡八幡宮です。1624年、長盛法師が信託により当時砂洲であったこの地に建立したことがはじまりです。徳川家の手厚い保護を受け、庶民からも親しまれるなどして周囲には門前町が形成されました。
明治維新後も皇室の崇拝を受け続け、加えて幕府や大名の加護を失った相撲界との結びつきも生まれました。
1945年3月10日の東京大空襲により焼失するも、1956年に現在の社殿が造営されました。現在では毎年8月15日前後に「江戸三大祭」に数えられる深川八幡祭が行われ、賑わいを見せています。
また、地理に携わる人にはおなじみの伊能忠敬は、測量の前にこの富岡八幡宮にお参りをしていたそうです。そのことから境内には伊能忠敬像が存在します。




続いて向かうのは心行寺。ここには江戸時代の著名人2名が眠っております。
1人目は5代目鶴屋南北。鶴屋南北といえば「東海道四谷怪談」の著者として有名ですが、彼は4代目鶴屋南北。ここに眠るのはその著者の孫、5代目鶴屋南北です。先代と区別するため「孫太郎南北」と呼ばれていました。彼自身は4代目の作品の改訂や補作を中心に行い独創性は乏しかったとのことですが、のちの河竹黙阿弥を育成するなどの功績を遺しています。
2人目は工藤平助。いよいよマイナーかもしれませんが、西洋や北方の事情に通じ、「赤蝦夷風説考」を記した人物です。



心行寺から北へ向かうと、滝沢(曲亭)馬琴の生誕地碑があります。馬琴は「椿説弓張月」や「南総里見八犬伝」などの読本を執筆、特に後者は28年の歳月を費やして完成しました。碑のかたちはその功績を讃え、「南総里見八犬伝」全106冊を積み上げたかたちをしています。



すぐ近くには清澄庭園があります。入園料がかかる関係で今回入園は見送りましたがこちらも日本史と関わりが深い地です。大名屋敷の庭園に用いられた手法で明治時代に造園され、前島密や岩崎弥太郎が屋敷や貴賓招待の場として整備されました。特に岩崎家所有時代にはかの有名な建築家、ジョサイア・コンドル氏による洋式の建造物が建てられていたそうです。
広大な庭園は図らずも関東大震災時に避難場所として機能し、岩崎家はそれを受けて土地の半分を東京市に寄付、清澄公園として公開されました。


隅田川に向かって進むとセメント工場が見えます。ここは日本のセメント工業発祥の地であり、太平洋セメント(当時浅野セメント株式会社)の創業者・浅野総一郎氏の銅像と記念碑、明治27年に製造され横浜港築港に用いられたコンクリートがあります。

石碑の文
<石碑の文>
此地ハ元仙台藩ノ蔵屋敷跡ニシテ明治五年大蔵省土木寮ニ於テ始メテセメント製造所ヲ建
設セリ 同七年工部省ノ所管トナリ深川製作寮出張所ト改メラレ技師宇都宮三郎氏ニ依リ湿式焼成法ヲ採用シ初メテ外国品ニ劣ラザル製品ヲ得タリ 明治十年一月深川工作分局ト
改称サレ工場ノ拡張相次テ行ハレ同十六年四月逐ニ初代浅野惣一郎ノ経営ニ移リ浅野工場
ト称スルニ至ル 明治三十一年ニ月浅野セメント合資会社創立ト共ニ本社工場トナリ同三
十六年十一月本邦最初ノ回転窯ヲ設置シ事業愈盛大トナレリ 大正元年十月組織ヲ改メ株
式会社トナリ東京工場ト改称シ今日ニ改フ蓋シ此地ハ本邦セメント工業創生ノ地ニシテ
同時ニ又当社発祥ノ地タリ仍而茲ニ其然ル所以ヲ録シ之ヲ記念ス
                                            昭和十二年七月八日
                                             浅野セメント株式会社
                                              社長 浅野総一郎



セメント工場のすぐ近くには、平賀源内の電気実験の地の石碑も存在します。
彼は現在の清澄1丁目付近に居住し、かの有名なエレキテルの実験を行ったそうです。



さらに川沿いに歩くと濃い水色の美しい橋に出会います。その名は清洲橋。関東大震災の復興事業の一環で下流の永代橋とともに設計・建設されました。男性的と評される永代橋に比べ、当時もっとも美しいとされたドイツのヒンデンブルク橋をモデルとした清洲橋は女性的と評され、「震災復興の華」と呼ばれました。
清洲の名は公募によって当時の両岸の地名(深川区清住町と日本橋区中洲町)からとられたものです。
2007年、勝鬨橋・永代橋とともに都道府県の道路橋として初めての重要文化財に指定されました。



清洲橋のすぐ近くには、かつて陸奥宗光の邸宅がありました。
日本史選択にはおなじみの陸奥さん、和歌山藩に生まれたものの脱藩、神戸海軍操練所を経て坂本龍馬の海援隊に入隊しておりました。維新後には要職を歴任、政府転覆計画の加担を疑われ投獄されるも、出獄後第二次伊藤博文内閣の外務大臣として辣腕を振るい、日英通商航海条約を締結、領事裁判権を撤廃させたお方です。清澄には1872年から1877年まで居住していました。
余談ですが北村(仮名)も日本史選択でした。高校時代、日本史教師から聞いた「陸奥宗光の奥さんはとても美人」という情報だけはやけに鮮明に覚えております…。

清澄通りを歩いていると、まるでドラマに出てくるようなレトロな雰囲気の建物に出会います。その名は「清洲寮」。昭和8年に建てられた鉄筋コンクリートのアパートで、築80年を超える現在でも賃貸物件として現役で稼働しております。
4階建てでエレベーターは無し、玄関はほとんどの部屋が引き戸という状態ですが改修により風呂・トイレ付、清澄白河駅にほど近く、家賃は2Kで6万円前後という好立地好条件から入居希望者は後を絶たず、空き部屋もほとんど出ないそうです。



続いては史跡ではありませんが深川という地域、江戸時代という時代背景を知るにはもってこいの施設、深川江戸資料館にお邪魔しました。
昭和61年にオープンした文化施設で、江戸時代の深川佐賀町の町並を再現した展示室が目玉といえます。照明や音響で数十分で1日を演出するほか、各々の建物の構造や小物など非常に細かく再現されており、巡検メンバーも思い思いに江戸の町並を感じ、楽しんでおりました。




資料館を出てすぐ近くには霊厳寺があります。かつては霊厳島(現在の中央区新川)にありましたが、明暦の大火の折に移転したのです。関東18檀林のひとつであるこの寺には多くの大名家の墓がありますが、中でも有名なのが松平定信です。老中首座として寛政の改革を断行した定信は、老中の座を退いたのちも奥州白河藩主として藩政を掌握し、晩年はこの近く、八丁堀や築地の屋敷で生活していました。



少し歩いた先には紀伊国屋文左衛門の墓があります。紀伊国屋文左衛門といえば江戸中期の豪商ですが、とても不明な点が多い人物でもあります。この名前は2代に渡ったもので、ミカンの取引で財を成した父と幕閣と手を組み材木で巨額の富を得た息子であるという説にこの名は1人のものであるという説。晩年は家産が傾き惨めなものであったという説や寺社に巨額の寄進をできる資産を持ち文筆に親しんだという説。そもそもこの墓は本当に本人の墓であるのか…?とすら疑われる始末。墓の前の門が閉じられているため近くで見ることは叶いませんが、前に立ちどのような人物であったのかを想像しても良いかもしれません。



さらに東に進むと間宮林蔵の墓があります。伊能忠敬に測量学を学び、1808年樺太にわたって樺太が島であることを確認しました。樺太北部とシベリア海岸の間の海峡(タタール海峡)はシーボルトによって間宮海峡とヨーロッパに伝えられました。
探検家としての面が有名ですが、幕府隠密であったともいわれています。シーボルト事件の密告者として知られていますが、それが隠密としての活動であったのか、密告を機に隠密へ転向したのかは説が複数存在するそうです。
林蔵の墓は茨城県つくばみらい市にも存在し、どちらも生前に自ら建てたものです。茨城の墓石名は間宮自筆で、こちらのものは水戸藩主徳川斉昭のものと言われています。



このあと門前仲町駅に戻り、約4時間で日本史巡検は終了しました。予想以上に人数が集まったことと説明の拙さから下見時の倍ほど時間がかかってしまい、巡れなかったスポットが出来てしまったのは大きな反省です。
しかし今回の巡検により、地理的要素が少ないと思われる東京東部の埋立地などでの活動の可能性も見えてきたのも事実です。
日本史の面白さを地理を愛する皆さまにまたお伝えする機会があればいいなと思っております。
拙文、最後までお読みいただきありがとうございました。



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