2016年5月2日月曜日

4月24日(日) 新歓早稲田巡検Ⅲ (神楽坂方面)


みなさんこんにちは。新2年生のものです。
ここのところ地理研に多くの新入生の方が見学に来てくれて、われわれ地理研メンバーも非常に
うれしいです。まだ五月中も新歓巡検やBBQを行うので、興味のある方は是非来てくださいね。

さて4月24日(日)に神楽坂周辺を歩きました。神楽坂は早稲田から東西線で1駅、歩いても20分くらいです。

午前10:00に神楽坂駅矢来口から出発です。



午前の部

★神楽坂とは…
 JR飯田橋駅付近の外堀通り「神楽坂下」交差点から東西線「神楽坂」駅周辺の神楽坂通りを中心とする一帯をさします。「神楽坂」という地名は周辺の八幡神社から神楽を奏する音が聞こえてきたことに由来します。


●神楽坂の位置を知ることのできるポイント
神楽坂は台地の上にあり、周辺地域より少し高くなっています。ここから正面を見ると道が下っているのがわかります。その先には東京メトロ有楽町線「江戸川橋」駅があります。この高低差は神田川が作ったとされています。



●急階段




●赤城神社
鎌倉時代に群馬県赤城から移住した大胡氏によって建設された神社。





 


 

 


この神社の裏には急傾斜崩壊危険区域に指定されている急な崖があります。
とその横に井戸発見!!


赤城神社で記念撮影




●神楽坂上の風景
神楽坂は電柱が地中に埋められているため景観がよくなっています。





午後の部

●細い路地に突入!神楽坂には細い路地がたくさんあります。路地裏にはおしゃれな店や高級な店がいくつもあります。




●軽子坂
神楽坂と並んで昔からあった坂。主に物流を担う道として機能しました。

 



●熱海湯階段



●かくれんぼ横丁



●神楽坂通り
 神楽坂のメイン通りです。まっすぐ行くと飯田橋駅にぶつかってゴール!!
  

さていかがだったでしょうか?ここで紹介したのは神楽坂の一部です。神楽坂に少しでも興味を持った方は是非足を運んでみてくださいね。

ここまで読んでくれてありがとうございました。


ー 神楽坂にもっと詳しくなりたい方向けに… -


★神楽坂の歴史



●江戸時代

 神楽坂は徳川家光(三代目)により軽子坂に並行して作られた。坂の完成より前の家康の時に、寺院が神楽坂周辺に集められた。家光は以前から町人地を形成していた先人たちの協力のもと寺院を残し、そこに割り込む形で旗本・御家人の屋敷を配置した。しかし江戸時代も後期になると幕府も弱体化し、それに伴って寺町も衰退した。


●明治時代~大正時代

 1871年に東京遷都が始まると、わずか2年で武家屋敷は市街地となった。のちに飯田橋駅が開業すると、遊興施設が増えていった。大正期には関東大震災が起こったが、神楽坂では大きな被害はなかった。そのため銀座の有名店が神楽坂に店を出し、震災後数年間は「山の手随一の繁華街」と呼ばれた。


●昭和前期

 新宿・渋谷のターミナル化によって徐々に衰退。さらに太平洋戦争が始まると、東京大空襲などで被害を受け町は焼失した。

●戦後~現在

 各地では闇市立ったが、神楽坂では売るものの少なさと牛込警察の監視などの理由から闇市は成り立たず。商店が揃ったのは朝鮮戦争の好景気からであった。

 現在はビルが建つものの、昔の建物も多く町全体に統一感がなかった。しかしそれを「土地の個性が保全された」という点でよいものとして、現在に至っている。




★花街の変遷

 花街は江戸時代後期にある寺の境内の一郭を借地にし、そこに坊さんのための非公式の遊行の場ができたことに始まる。明治時代には規制が緩和されて、芸者も許可を取れば自由に営業ができるようになった。そこで空き家同然の武家屋敷に入り込み、遊興地を形成した。隠れ家的な雰囲気を持つ神楽坂には多くの芸者が住みついた。戦後も早く復興し、有力者や政治家が利用する料亭が並んでいた。しかし1950年代を境に料亭の数は減少、昭和末期には老舗も多く閉店し、跡地はマンションとなった。現在は裏路地の風情とわずかな料亭にその痕跡が残るのみである。

 












 

0 件のコメント:

コメントを投稿